古今亭志ん輔の「唐茄子屋政談」上2019/08/06 07:04

 志ん輔は紫の羽織、空色の着物。 吉原は遊女三千人御免の場所、客は一日 一万人とも二万人ともいう。 ちょいと兄さん、登楼(あが)ってって。 金 がない。 ちょいとは、あるんでしょ。 これっくらいならある。 若いもん が、いいと言ったと、登楼ると、おばさんが出てくる。 ちょいと色をつけて 下さいよ。 いい妓がいますかい。 ちょいと、お待ちを。 ことぶきさん、 えーー! おばあさん(を?)、呼んだかねえ(このあたり、不明)。 という のを、前に市馬先生がやっていた。

 大店の若旦那、額に汗して稼いだ金ではない、きれいな恰好をして、真っ黒 い腹をして付き合おうとする相手だから、大変。 幾晩も帰って来ない。 お 父っつあんが親類を集めて、勘当しようと思う。 兄さん、あれの気持をいっ ぺん聞いてみようと、引っ張って来る。 何をやっているんだ、お前は。 勘 当されたら面倒をみようという女が吉原にいる。 お天道様と米のメシはつい て回ると、啖呵を切って飛び出す。

 吉原へ行くと、一日二日は付き合ってくれる。 おばさんが出てくる、海に 千年、山に千年、野に千年、三千年の甲羅を経たようなおばさん、いっぺんお 家にお帰りになったらいかがです、ポーンと出されて、贔屓の幇間のところな んかを回ったりするが、ポーンと出されて、行く所がなくなる。 神社やお寺 の縁の下で寝て、お天道様はついて回るが、米のメシはついて回らない。

 ポツッと来たやつが、馬の背を分ける夕立になった。 歩いているのは、ボ ロボロの着物を着た若旦那一人、吾妻橋のたもとから、遠く吉原の灯が赤く見 える、欄干に手と足をかけて、飛び込もうとする。 待った! お放し下さい、 死ななきゃならない訳がある。 徳か? 叔父さん。 お前なら、助けるんじ ゃなかった。 叔父さん、助けて。 お天道様と米のメシはついて回らなかっ たのかい。 お天道様ついて回ったけれど、米のメシはついて回らなかった。  目が覚めたか、何でもするか。 出来る事なら、何でもします、目でお煎餅を 噛めといわれても出来ませんが…。

 婆さん、吾妻橋んとこで、拾い物をした、人間一匹拾って来た。 誰が落と したんだろうね。 叔母さんに挨拶しろ、徳の野郎だよ。 徳坊じゃないか、 ウチは他の親類と違うよ。 井戸端で、手と足を洗って来い。 腹が減ってる んだろう。 アジかなんか焼くかい。 魚なんかいらない、さっき川に飛び込 んで、魚に食われるところだったんだ。 飯食ったら、二階に上がって寝ちま え。 二階は、蚊帳がないよ。 こんな馬鹿、蚊が喰うものか、喰ったら蚊が 馬鹿になる。

古今亭志ん輔の「唐茄子屋政談」中2019/08/07 07:18

 徳は、泥のように寝る。 すまないね、そこへ置いといてくれ。 煤掃きの 時の半纏と、お山の時の笠、足袋は白と黒の片っ方ずつしかない…、それでい いよ。 股引穿いたら、足袋を履け。 白と黒でかっこうが悪い。 そんなこ とが言えるのか。 腹掛けのどんぶり、背中でバツにして。 唐茄子を売んな、 さっき、荷が来てる。 どこの店で? 天秤棒で、唐茄子屋でございって、売 って歩くんだ。 みっともない、勘弁してよ。 それが嫌なら、昨日の汚い着 物を着て、出て行け。 唐茄子の方で、お前なんかに売られるのを嫌がるよ。  遊ぶんなら、自分で稼いで、自分の金で遊べ。 それなら、叔父さんも一緒に 行ってやるよ。

明日からですか。 明日じゃない、今日からだ。 行った先で、弁当つかわ せてもらえ。 担ぐんだよ、それっぱかり、担げないのか。 腰で担ぐんだよ。  (自分で担いでみて)少し、下ろそう。 豆腐屋さん、路地入ってくるんじゃ ないよ。 入ってくるな、納豆屋!

 達磨横丁を出て、吾妻橋を渡る、看板に笠が当たって、アミダになり、ウロ ウロ、ヘラヘラと歩く。 田原町あたりまで来たところで、炎天油照り、汗が 目に入って、何も見えない。 石に蹴躓き、ドーーーンと倒れた。 「人殺し!」 

唐茄子、拾えよ。 お前一人で担いで来たのか。 何、遊びが過ぎて勘当に なって、初めて天秤棒を担いだのか。 今、売ってやるから。 源さん、唐茄 子、三つばかり買え。 二つ。 そこの誰だか知らない人、唐茄子買ってくれ。  銭を置いてって。 糊屋の婆さん、唐茄子はどうだ。 今、湯に行くところで。  半公、こっちへ来い、唐茄子買ってくれ。 俺はガチャガチャじゃない。 待 て、三年ばかり前、お前が親方をしくじって、ウチの二階に居候していた時、 唐茄子の安倍川四十八切れ食ったろ。 銭はやる、唐茄子はいらねえ。 この 人は物貰いじゃないんだぞ。 持ってくよ。 いざとなったら、でけえの選っ てるよ。 あらかた売れたな、残りは二つだ。 ありがとうございました。 今 度また来たら、声ぐらいかけなよ。 親切な人がいるもんだ。

古今亭志ん輔の「唐茄子屋政談」下2019/08/08 07:13

 黙って歩いてて、売れなかったんだ。 トー、トトトトト…。 (いきなり 大声で)トコロテン屋、テン屋! 大きな声だな。 トー、トトト…、人が来 た。 トー、トトト…、また来た。 田圃だから、蛙ぐらいしか聞いていない。  トーナスですよ、トーナス屋でござい! ここは吉原田圃だ。 トーナス、ト ーナス屋でござい! いい女だったな。 初めて行ったのは、仲間の寄合の崩 れだった。 こういう人が好きなんだよ、って言った。 トーナス屋でござい!  裏を返したら、驚いてた。 こっちが駄目になっちゃったよ。 朝起きたら、 女が起きてて、雪だよ、犬っころが喜んでる、雪の日なのに帰るのかい。 流 そうか、寄せ鍋をそういい、二人でつついた。  あら若旦那、舌の先に白滝 がからまったわって。 あれから帰らなくなったんだ。 トーナス屋でござい!  床の間の三味線、弾き始めた。 ♪のびあがり のびあがり 見れども見えぬ  後ろ影 ええ、も、じれったいと 思わず噛み切る 爪楊枝  俺の膝にもた れ掛かって。 トーナス屋でござい!

 誓願寺店(せいがんだな)に入って来た。 品のあるおかみさんが、御鳥目 三文で唐茄子一つ分けてくれ、と。 二つどうぞ、弁当をつかわせてもらうの で。 三つになるという子供が、まんま、まんま、と。 今、唐茄子煮てあげ るから、坊や、待っていて。 みっともないったら、ありゃあしない。 訳が あって、亭主は元侍で小間物の行商に出ているが、送金が途絶えて、二日も何 も食べさせてない。 徳は、弁当を男の子にやり、今日の売り溜めを、叩き付 けるようにして、置いてきた。

 荷が空(から)、みんな売れたのか、飯も食ってないのか。 婆さん、アジを 焼いてやれ。 田原町で転んだら、親切な人がいて、みんな売ってくれたのか。  売り溜めを見せろ。 ない。 他人にやっちまっただと、アジ下ろしておけよ。  こういうわけで、みんなやっちゃった。 提灯に灯を入れろ、一緒に行こう。

 こんばんは。 どなた。 先ほどの八百屋でござんす。 私は隣の糊を売る 婆あで。 家主が因業の国から因業を広めに来たような家主で、店賃をもらっ とこうと、あの売り溜めを取り上げて行った。 おかみさんが、暗くなっても 灯をつけないので、見に行くと、梁(はり)にぶら下がっていた。 下ろして、 様子を見ているところで。 私は、これの叔父で、達磨横丁で三十六軒の家主 をしているが、家主がひどいね。

 徳と叔父さんは家主のところに乗り込み、やかんで家主のやかん頭をバーー ン、十六かん。 竹の野郎、家主の頭に薬を塗っている。 トンガラシでも塗 りゃあ、いいんだ。 奉行所におおそれながらと、家主を訴え出て、徳が青緡 五貫文のご褒美を頂く、唐茄子屋政談という一席で。

慶應義塾の財政危機〔昔、書いた福沢91〕2019/08/09 07:22

               慶應義塾の財政危機

       <等々力短信 第880号 2000(平成12)年6月15日>

 西南戦争のインフレで、田中正造が儲けたという3千円とは、どのくらいの お金だったのだろうか。 まず週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』をみ る。 日本酒(上等酒1.8リットル)の値段は、明治14年11銭、昭和 55年2千2百円で約2万倍、そば(もり・かけ)の値段は、明治20年1 銭、昭和55年280円で約2万8千倍。 田中正造の3千円は、ざっと昭和 55年の6千万円から8千4百万円という勘定になろうか。

 ここで思い出したのは、明治10(1877)年の西南戦争によって、慶應 義塾が経営危機に陥ったことだ。 学生数が激減したためである。 多くの学 生が、福沢の制止を聞かず戦場に馳せ参じて、生命を落した。 秩禄公債発行 と戦費支出が重なって生じたインフレーション(西川俊作さんの『福沢諭吉の 横顔』慶應義塾大学出版会刊による、単に紙幣乱発だけが原因ではなかったよ うだ)によって、学生のほとんどがその子弟である一般士族の生活がドン底に 達したからである。 『慶應義塾百年史』によると、在学生徒数は明治9年 340名、10年282名、11年233名、12年293名。 義塾の会計 収入は明治9年9,058円、10年6,078円、11年4,297円、 12年3,727円。 田中正造の3千円は、同じ時期、明治12年の慶應義 塾の年収にも匹敵する巨額だったのである。

 慶應義塾の経費の方はといえば、年額1万2千円ぐらい必要だったようだか ら、たいへんな赤字で、福沢がそれまでにベストセラーを出して貯えていたポ ケットマネーで補填したりして、しのいでいた。 西川俊作さんに「西南戦後 インフレ期における慶應義塾と福沢諭吉」(1981年『福沢諭吉年鑑8』所 収)という論文がある。 財政危機の明治12年、建物修理その他経費を全部 節約しても、教員給与は4,800円(36円は不足)、塾の収入は上記 3,727円だから、福沢の足し金は1,037円に達した勘定になるとい う。

   教員たちは相談して、世間相場の三分の一ぐらいだった給与をさらに半減ま たは三分の一に減じても、何とかして塾をもりたてて行こうと努力した。 福 沢は義塾維持資金借用の運動を、徳川家、つづいて政府、旧薩摩藩主島津家な どに行なったが、いずれも不成功に終った。 福沢は一時廃塾も決意した。  塾の先進者たちは、ここにいたって義塾の存続を真剣に討議し、「慶應義塾維 持法案」というものを作り、明治13年11月、社中内外に訴えて募金を始め ることになる。

漱石と諭吉〔昔、書いた福沢92〕2019/08/10 07:25

                漱石と諭吉

      <等々力短信 第894号 2000(平成12)年11月5日>

 岩波書店の『漱石全集』に、第十七巻「索引」が出たのは1976(昭和5 1)年4月のことで、始めてから一年を過ぎたばかりの、ハガキに和文タイプ 謄写版印刷だった「広尾短信」同年5月15日の44号で、取り上げている。  さっそく「広尾」「慶應」「福沢諭吉」を引いてみて、当時住んでいた「広尾」 の、まさにその同じ場所である祥雲寺墓地の横に、鈴木三重吉が住んでいたら しいこと、「慶應」は、講演を断わる手紙を書いたという日記と、英語教師にな れという話を断わることにふれた小宮豊隆宛の手紙に登場するだけで、「福沢諭 吉」にいたっては、『漱石全集』全十六巻に一度も現れないと書いている。 当 時、ひどくがっかりしたのを覚えている。 漱石は、福沢が嫌いだったのだろ うか、などと思った。 漱石がイギリスに留学したのは、福沢が死ぬ一年前の 1900(明治33)年のことだ。 漱石が少年期か学生時代に、ベストセラ ーである福沢の著作を、まったく読んでいなかったとは考えられないからだっ た。

 司馬遼太郎さんは、天才夏目漱石の出現によって、大工道具ならノコギリに もカンナにもノミにもなる「文章日本語」ができあがったという持論を展開し た。 漱石の文章を真似れば、高度な文学論も書けるし、自分のノイローゼ症 状についてこまかく語ることができ、さらには女性の魅力やその日常生活を描 写することもできるというのだ。 『司馬遼太郎全集』月報に書いた「言語に ついての感想(五)」(文春文庫『この国のかたち 六』所収)の中で、司馬さ んはその漱石以前に、新しい「文章日本語」の成熟のための影響力をもった存 在として、福沢諭吉の文章をあげる。 とくに『福翁自伝』を、明晰さにユー モアが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている、 という。 ただ福沢の時代のひとたちの、事柄を長しゃべりするとき、つい七 五調になってしまう伝統の気配が『福翁自伝』にも匂い、そのため内容の重さ にくらべて、文体がやや軽忽(きょうこつ=かるはずみ)になっていると指摘 する。 「しかし『福翁自伝』によって知的軽忽さを楽しんだあと、すぐ漱石 の『坊ちやん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでも ない。 偶然なのか、影響があったのか。 私は論証なしに、あったと思いたい」 と、司馬さんは書いている。

 漱石の蔵書中に福沢の著作があったかどうか、『坊ちやん』に『福翁自伝』の 影響があるのかなど、両者の関係を研究してくれる人はいないだろうか。