日本の「窓」ヨコハマ(1)〔昔、書いた福沢110-1〕2019/09/06 07:25

<小人閑居日記 2019.8.27.>の福沢索引『福澤手帖』拙稿一覧〔昔、書い た福沢109〕に出した福澤諭吉協会『福澤手帖』に書かせて頂いた原稿を、順 次紹介させて頂く。

まず、『福澤手帖』第73号(1992(平成4)年6月)の「一日史蹟見学会 日 本の「窓」ヨコハマ」から。

福沢諭吉は、江戸に出た翌年の安政6年(1859)、開港されたばかりの横浜 を見物に行く。 横浜で、福沢は非常に落胆した。 それまで死にもの狂いで 学んできたオランダ語が通じない。 看板も読めなければ、ビンのレッテルも わからない。 福沢の偉いのは、状況を見て転換を図る、その決断の早さにあ る。 横浜から帰った翌日には、これからは英語だと「英学発心」したのであ った。 一日、もし福沢が横浜を訪れなければ、日本の運命はどう変っていた だろうか。 平成4年(1992)4月26日(日)、福沢諭吉協会の第4回「一日 史蹟見学会」は、その横浜を目的地に選んだ。 最近活気に満ちて新生しつつ ある横浜の魅力に加えて、毎回の協会「史蹟見学会」ならではの特典が、会員 諸氏にも浸透したのか、申し込みが殺到、2、3日でたちまちキャンセル待ちに なった由、バスに乗りきれない方々は横浜の現地から参加され、総勢68名と いう盛会になった。

定刻通り三田を出発、気持よく晴れて絶好の旅行日和、銀杏並木の新緑が美 しい。 バスは一路第一京浜国道を横浜へ。 車中で幼稚舎教諭加藤三明さん が横浜の歴史について説明される。 加藤さんは「福沢先生の史跡探訪 横浜」 と題する資料を準備して配って下さる(幼稚舎機関誌『仔馬』平成元年7月・ 11月「横浜への道」1・2、平成2年11月「明治期の横浜」)。 途中、生麦で はバスの中から生麦事件の記念碑を見た。

横浜は、古い記録に「海の中に陸地よこたわる」とあるそうで、吊鐘型の湾 の入口に伸びた砂州だった。 現在の「港の見える丘公園」の丘を付け根にし て、天の橋立のようなものが湾の入口をふさぎ、その砂州の上に何戸かが住ん でいた漁村が、横浜村であった。

横浜が歴史の舞台に登場するのは、安政元年(1854)ペリーの二度目の来航 の時である。 江戸から離れた浦賀への回航を命ずる幕府に、ペリーの黒船は 羽田沖まで入って威嚇したため、両者の間をとって、横浜に応接所が設けられ た。 安政元年2月10日(1854.3.8)ついにペリーが横浜に上陸、3月3日(3.31) 横浜応接所において日本最初の近代的条約である日米和親条約が調印されたの であった(開港資料館隣の開港広場に記念碑がある)。 さらに安政5年(1858) に幕府と米国(代表・ハリス)との間に調印された日米修好通商条約によって、 兵庫、長崎、新潟、箱館とともに神奈川の開港が規定された。 ハリスは当初 江戸、品川を開けと要求したが、幕府は神奈川を主張して受け容れさせた。 さ らに横浜も神奈川の小字だと強弁して、街道から外れて大きく迂回しないと行 けない砂州と、それにつらなる吊鐘型の入江を干拓した新田の上に、新しい街 をつくり、まわりを掘割と関所で囲む、長崎の出島のようなものを構想した。  神奈川宿には東海道が通っており、外国人との接触の機会が多くなるのは何か と問題だし、また過激な攘夷家が何をするかわからない。 各国外交団はあく までも神奈川開港を主張して、神奈川(現在のJR横浜駅から東京寄りの地域) に領事館を開設したが、幕府は横浜(現在の港に面して桜木町駅から元町まで の間に広がる横浜中心部一帯)に居留地を整備するなど既成事実を積み上げた。  港としては神奈川よりも横浜の方が適していたこともあって、外国商人はここに住居 を求めるようになり、しだいに横浜居留地が発展して、ついに各国外交団も万 延元年3月横浜居留地を承認せざるを得なくなる。 居留地では波止場に向っ て右に外国人街、左に日本人街、奥の沼地の中に遊廓(今の横浜スタジアムの 所)が設けられた。 もとの砂州の住民を移住させた所が「元村」(今の「元町」) で、掘割で囲い込んだところから「関内」の地名が生まれたという。

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