バルトンとバートン(1)〔昔、書いた福沢112-1〕2019/09/12 06:55

『福澤手帖』第102号(1999(平成11)年9月)の「バルトンとバートン」。

              没後百年のバルトン忌

 1999(平成11)年8月5日、没後百年のバルトン忌と記念シンポジウムが、 青山墓地と外苑前の会場で、日本下水文化研究会の主催により開催された。 バ ルトンというのは、「日本上下水道の父」といわれる英国人ウィリアム・キニン モンド・バルトン(William Kinninmond Burton,1856-99)のことである。 曽 孫の鳥海(とりうみ)幸子さん始め50名ほどの参加者(大学、官庁、産業各 界の上下水道関係者が多かった)は、青山墓地のバルトンの墓前でスコットラ ンドのバグ・パイプのテープを伴奏にAmazing Graceを合唱し、献花した。 

W・K・バルトンは、1887(明治20)年、31歳の時、東京帝国大学工科大 学に日本初の衛生工学講座が開設された際、教師として招聘され来日、日本の 近代上下水道草創期を担うことになる人材を育てる一方、内務省衛生局顧問技 師、東京水道顧問技師として、日本各地の上下水道の調査・設計・工事等に多 大の功績を残した。 その間、浅草十二階(凌雲閣)を設計したり、日本写真 会の創設に尽力し、地震学者J・ミルンと一緒に1891(明治24)年濃尾大震 災の記録写真集『日本の大地震』を出版するなど、幅広く活躍している。 1896 (明治29)年、衛生工学教師を解嘱されると、台湾へ渡り、教え子浜野弥四郎 と共に今年通水百年を迎えた台湾近代水道の建設に尽力した。 このことは稲 場紀久雄大阪経済大学教授の浜野弥四郎伝『都市の医師』(水道産業新聞社)に 詳しく、それを司馬遼太郎さんが『街道をゆく』「台湾紀行」に感動をもって紹 介している。 台湾で病を得たバルトンは、13年ぶりに英国へ帰省の途上、1899 (明治32)年8月5日東京で亡くなった。 43歳だった。 その9か月前、 バルトンがそのほとんどを設計し、私たちが毎日その恩恵に与っている東京近 代水道は、通水を開始していた。

 バルトンの事績を調査していた稲場教授が、1977(昭和52)年1月10日、 青山墓地でバルトン墓碑を探し当て、墓地所有台帳から翌53年10月京都にバ ルトンの孫鳥海たへさんを訪ねたことから、バルトンやその衣鉢を継ぐ浜野弥 四郎の偉大な業績が次第に発掘されてきて、1992(平成4)年からは毎年8月 5日にバルトン忌が営まれるようになった。 W・K・バルトンについては、そ の後も、数々の出会いやご縁の不思議がみられたのである。