バルトンとバートン(3)〔昔、書いた福沢112-3〕2019/09/14 07:18

              W・K・バルトン余滴

 この「等々力短信」を読まれた福澤諭吉協会の竹田行之氏から、さらなる調 査と、その『福澤手帖』での報告を依頼されながら、私の怠慢のために今日ま で報告が遅れてしまった。 それはW・K・バルトン関係で、いくつか確認し たいことがあったためでもある。 なかなか調査が進められないのだけれど、 没後百年をきっかけに、本稿を書いたのは、福澤諭吉協会の皆様にジョン・ヒ ル・バートン、W・K・バルトン親子にかかわる興味深い事実をご紹介し、広 く研究を進めていただきたいと考えたからである。

   一 滝本誠一教授

 バルトンの遺児多満(明治24年生れ)さんの長女たへさんは昭和9年、京 都の日出新聞学芸部記者(のちに朝日新聞学芸部記者)の鳥海一郎さんと結婚 した。 一郎さんは母上が鳥海神社宮司の家系であるため鳥海姓を継いでいた が、父上は慶應義塾大学経済学部教授の滝本誠一博士であった。 たへさんの 長女、バルトンの曽孫にあたる鳥海幸子さんは、没後百年バルトン忌にも参加 されていたが、滝本誠一教授の著書『欧州経済史』を所蔵しておられる。 稲 場日出子さんは、W・K・バルトン没後百年特集(上)を組んだ『水道公論』 誌1999年7月号に「バルトン家と福沢諭吉」という一文を寄せ、「『欧州経済 史』は、まさに『西洋事情』の続編ともいうべき内容である。滝本博士は、将 来子息の夫人になる人の曾祖父がその本の原著者であることなど想像もせずに 教室で図書館で『西洋事情外編』を手にされたに違いない」と書いておられる。  おそらく、その通りであったのだろう。 厳密には『三田評論』『三田学会雑誌』 などのバックナンバーで、滝本誠一教授の論文等を調べる必要があろうが、そ こまで及べないでいる。 『慶應義塾百年史』第一章「総合大学の確立」に、 大正11(1922)年度の慶應義塾学事及び会計報告から大学各学部と予科の教員 氏名が出ている。 文学部の日本経済史と経済学部の中古経済史、日本経済史、 研究会の担当として法学博士滝本誠一の名前がある。 「チェンバーズの『政 治経済学』」は、高橋誠一郎先生が昭和の初め、イギリスの古書目録の中から発 見して取り寄せるまで、日本では誰もこれを知らなかったという。(富田正文『考 証 福沢諭吉』上) 高橋誠一郎先生ご自身は、留学中に買い集めて来た本の中 にあったと書いている。(『随筆 慶應義塾』266頁) 滝本教授が高橋先生から、 この本の話を聞いた可能性はある。 滝本誠一博士は、1932(昭和7)年8月 に亡くなっている。 アルバート・M・クレイグ教授の論文「ジョン・ヒル・ バートンと福沢諭吉」は、ずっと下って、1983(昭和58)年4月の成稿、1984 (昭和59)年10月西川俊作教授による翻訳が『福澤諭吉年鑑』11に、原文は 1985(昭和60)年3月慶應義塾福沢研究センター紀要『近代日本研究』第1 号に掲載された。

    二 永井荷風の父と長与専斎

 W・K・バルトンは、どのようにして来日することになったか。 稲場紀久 雄教授の『都市の医師』によれば、日本は1886(明治19)年悲惨なコレラの 大流行に襲われた。 そこで上下水道工学をイギリスに学ぶため新進気鋭の学 者を招聘する必要があるという意見が興る。 それより先、内務省衛生局の有 能な事務官永井久一郎(作家永井荷風の父)は、1884(明治17)年5月から 翌18年9月まで主に英・独・仏の上下水道を視察調査した。 渡英直後の明 治17年7月、ロンドンで万国衛生博覧会が開催された。 当時の衛生局長長 与専斎の自伝『松香私志』に「バルトンは、英国の工学士にして倫敦市の水道 事務局に勤務し、衛生工事には熟練の人なりしを、先年倫敦に万国衛生会を開 かれるとき、衛生局より永井(久一郎)出張してその会に参列しけるが、この 時よりバルトンと知るに至り、帰京ののち推薦するところありき」とあるそう だ。