「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(1)〔昔、書いた福沢115-1〕2019/09/23 07:05

『福澤手帖』第115号(2002(平成14)年12月)の「「徳島慶應義塾・内 田彌八・子規と松山」の時代 第37回福沢史蹟見学会」。

 10月27日、徳島と松山へ二泊三日の旅に出た。 今回は服部禮次郎理事長 が事前に下見されるなど、企画段階から深く関わられた由、充実した見学旅行 が期待できる。 徳島空港には三木俊治徳島慶應倶楽部会長が出迎えて下さっ た。 三木さんは長く塾の評議員や徳島市長を務められた。 私事だが、第一 銀行の新人行員時代、本店為替課で先輩の三木さんとご一緒したことがあって、 三十数年ぶりの再会となった。 三木さんのご案内で、そのお家、藍の一大産 地だった阿波徳島の藍の豪商三木家(三木産業株式会社)が、阿波藍関係の諸 史料や同家事業の記録などを保存している「三木文庫」を見学した。 建物や 庭の木も石も、諸資料・記録も、実に見事で、きちんと整理されている。

 鳴門観潮のため、鳴門側から淡路島にかかる大鳴門橋の、本来鉄道用だった スペースに作られた「渦の道」を歩いて、45メートル下を覗く。 ちょうど干 満の中間の時間帯で、渦潮は見られなかった。 吉野川沿いの史蹟阿波十郎兵 衛屋敷で、イベントの為たまたま公演中の人形浄瑠璃「傾城阿波鳴門順礼歌の 段」を観る。 阿波おどり会館で、同館専属の連「阿波の風」の阿波おどりを 見物、小坂夫人と事務局の秋山さんが舞台に上がって、連と一緒に踊る阿波お どり体験をした。 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃ損々」、積 極的に参加することこそ、人生を楽しむための秘訣だというのが、阿波おどり の精神なのだろうと「見る阿呆」は反省した。

              徳島慶應義塾分校

 明治6(1873)年以降、慶應義塾は東京に来ることのできない地方の者のた めに、大阪、京都、次いで徳島に分校を開設した。 大阪の閉鎖に伴ない移っ て来て、徳島に分校があったのは、明治8(1875)年7月から9年11月まで の短い間だった。 昨年4月跡地に建てられたその記念碑を見学し、碑のすぐ 前の徳島プリンスホテルに宿泊した。 徳島慶應倶楽部のメンバーにも参加し て頂いて、セミナーが開かれ、西川俊作福澤諭吉協会理事の「徳島慶應義塾に ついて」という講演を聴いた。

 教員は初代分校長の矢野文雄、中井芳楠、矢野のあとの二代目分校長城泉太 郎、中島武藤太。 教科は、英書、算術(簿記だろうが、教員に知識はなかっ た由)、訳書。 入社(入塾のこと)金25銭(三田の本塾転学には2円75銭 の追加が必要)。 塾生は『慶應義塾百年史』上巻によると、大阪入社で徳島に 移った40名、徳島入社9名。

[以下は、紙数の関係で『福澤手帖』に掲載できなかった草稿]

徳島慶應義塾記念碑はモニュメント(石塔)と碑文からなる。 「人」の字 を表したモニュメントは、阿波の大地の青石を割り、人心を文明の方向に導こ うという志を示し、スパイラルに上昇しながら、段々と磨かれ育ち、頂部は鋭 く光って、天を指している。 石塔の高さ1875mmは、分校設立の年号を表す。  下に敷かれた青石は、塾への入学、就職に縁起がよいとの評判で、持って行く 人があり、時々補充しているという話だった。

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