「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(2)〔昔、書いた福沢115-2〕2019/09/24 06:57

    井川の内田彌八記念碑、大歩危から道後温泉へ

 10月28日、徳島市から三好郡井川町へ。 バスの中で徳島慶應倶楽部幹事 の吉見誠記さんに、内田彌八の話を聴く。 詳しい事前調査とバランスの取れ た史料解釈、名ガイドぶりに感心した。 井川町ふるさと交流センターで内田 彌八の展示資料を見学。 内田彌八は幕末井川に生れ、大阪で丁稚奉公をした り、大阪江戸で漢学を学び、郷里で戸長(村長)を務めたあと、22歳の明治 16(1883)年慶應義塾に入り、20年に卒業した 。在学中の明治18(1885) 年、末松謙澄がロンドンで刊行した英文著書を『義経再興記』と題して翻訳、 ベストセラーとなる。 この本は源義経がジンギスカンになったという伝説を 燃え上がらせる導火線になった。 内田は在学中から塾生で一人、福沢諭吉の 国内旅行に随行するなど可愛がられるが、卒業後貿易を志し、中国、インド、 タイ、オーストラリアなどを漫遊、途中で病を得、帰国して療養するものの、 明治24(1891)年30歳の若さで亡くなる。 JR土讃線佃駅近くの公民館前 にある、内田の「臨死自記」と福沢の追悼文を刻んだ記念碑(『全集』別巻142 頁)を見学した。 内田家を継いだ古郷家のご当主や郷土史研究家を始め地元 の皆さんから、心尽くしの手打そばと丹精の菊花展による温かい歓迎を受けた。

 大歩危で舟下りを楽しみ昼食、松山自動車道を一路松山市へ。 たまたま四 百年祭という松山城にロープウェーで登る 。マドンナや坊ちゃんや警官の扮 装をした連中(アルバイトか)が観光客を迎えて、一緒に写真に入ったりして いたが、薄着で、おりからの寒波襲来に寒むそうだった。 わが国最古の温泉、 道後温泉の、漱石が「はじめての鮒屋泊りをしぐれけり」と詠んだ「ふなや」 に泊まる。 瀬戸内海に面して、新鮮な魚介類に恵まれた、ここの夕食はまこ とに結構だった。 前菜に丸十シロップ煮というのがあった。 丸十は薩摩芋、 自慢の鳴門金時だろう。 鯛飯は、鯛を乗せて炊くのではなく、始めから混ぜ 込んで炊くのだそうだ。 鯛と間八の刺身にも「すだち」が付いている。 私 が醤油に「すだち」を搾っているのを、隣に座った守田さんが見て、ご自分も 刺身に「すだち」をかけながら「すっぱくなりませんかね」と訊く。 即、答 える「すっぱいは成功のもと」。

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