「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(3)〔昔、書いた福沢115-3〕2019/09/25 06:59

         正岡子規と俳句の都・松山

 10月29日、ふなやの朝湯を楽しむ。 正岡子規がこのあたりで「亭ところ どころ渓に橋ある紅葉哉」と詠んだという庭園が素晴しい。 山頭火の句碑が あった。 「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし」。 道後温泉を出て、 四国八十八ケ所の五十一番札所、子規が「南無大師石手の寺よ稲の花」と詠ん だ石手寺を参詣。 松山市立子規記念博物館へ。 常設展示にも、短時間では とても見きれないほどの正岡子規があったが、この日から11月24日まで特別 企画展「子規と故郷」の開催中だった。 「春や昔十五万石の城下哉」「城山の 浮み上るや青嵐」「松山や秋より高き天守閣」の正岡子規を中心に、松山は高浜 虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田波郷など数多くの俳人を輩出し、今も俳 句がさかんで「俳都」と呼ばれている。 ところどころに「観光俳句ポスト」 が設置されていて、投句用紙が置いてある。 私も川柳もどきを二句詠んだ。 「冬近しぼっちゃーんと入る道後の湯」、松山城四百年祭「マドンナの時給はい くらそぞろ寒」。 砥部焼観光センター、伊予かすり会館などに寄り、松山空港 から帰京した。

          『坂の上の雲』の時代

 明治のこの時期は、明るい希望と颯爽とした青春のある時代だった。 それ は政治の季節でもあった。 慶應義塾の徳島への誘致にも、自由民権運動の政 治結社「自助社」が蜂須賀家の援助を受けて、活動したらしい。 『自由党史』 に「自助社」は、土佐とも通じ、同地の立志社につぐ名声を博したとあるとい う。 城泉太郎の徳島慶應義塾についての回顧談によると「演説が主で、教授 は従」だったそうだ。 徳島慶應義塾に学んだ学生たち一人一人が、その後の 自由民権運動や日本の近代化にどのようにかかわったかは、興味深い研究テー マだろう。

 子規記念博物館の「子規と故郷」展に、明治11(1878)年6月草間時福(と きよし)の北予変則中学校(松山中学の前身)の総教辞令、13(1880)年4月 西川(河)通徹の松山中学校長兼総教辞令があった。 草間も西川も慶應義塾 の出身者で、進歩的な思想を持つ愛媛県権令岩村高俊によって抜擢された。 岩 村は、人々の自由な主張の場である新聞を二紙発行させ、中学校にも草間のよ うな自由民権思想を抱く人物を配し、松山に自己の確立と民権の向上を論じる 新しい風を吹かせたのであった。 自由民権思想の持つ、土地の習慣に縛られ ない全国的な視野と意識は、若い世代の多感な感情を揺さぶった。 少年期の 正岡子規も、強い影響を受け、政治に興味を持ち、演説に熱中していたという。

松崎欣一著『三田演説会と慶應義塾系演説会』の「梅木忠朴の場合」による と、草間時福が明治12(1879)年7月任期を終って松山を去った時、たくさ んの門下生が前後して上京し慶應義塾に入っている。 山路一遊、村井保固、 宮内直挙、矢野可宗、浅岡満俊、門田正経、梅木忠朴、細井重房で、ほかにも 三菱商業学校、司法省法律学校、東京府商法講習所などに入学した者もいた。  当時一般的だった地方青年の遊学熱が、松山では草間時福という指導者を得て、 それが一層大きなものになったのだという。

 内田彌八について、服部理事長は井川町公民館佃分館での見事なお礼の挨拶 で、次のような話をされた。 当時全国の勉学を志すたくさんの若者の内で、 東京へ行けた者も、行けなかった者もいた。 行けなかった多くの若者の、声 なき声に支えられて、その代表、阿波の選抜選手、チャンピオンとして、内田 彌八は東京という勉学の場、全国大会に出て、大活躍をした。 いよいよ本戦 という時期に、東南アジアやオーストラリアから貿易の可能性を郷里の新聞に 寄稿するなど、相当いい所まで行き、残念ながら病を得、あたら若い命を落と した、と。 ここにも、明治の青春の一つがあった。 子規も、彌八も、病に 倒れたけれど、どこか明るいのは、時代を反映しているのだろう。

ある老作家の人生<等々力短信 第1123号 2019(令和元).9.25.>2019/09/25 07:01

 2月の1116号で乙川優三郎さんの『二十五年後の読書』を紹介した。 最後に著者が仕 組んだのは、老境のスランプに陥った作家が書き下ろしの新作に挑み、生きる気力を失っ てスールー海で静養中の愛人の書評家に、編集者がその書評を依頼に来る話だった。 そ の題名は『この地上において私たちを満足させるもの』(新潮社)と長い。

 高橋光洋(こうよう)は、71歳になる今も小説を書いているが、二、三十枚の短篇しか 書かなくなっていた。 胃癌の手術後、故郷の反対側、御宿の高台に海を見晴らす終の棲 家を求め、家政婦としてフィリピンから来て5年のソニアと暮らしている。

 高橋家は、東京の下町で大衆食堂を営んでいたが、父が出征、祖父母と母と兄は店員の 縁故で袖ケ浦に疎開した。 家は東京大空襲で焼け、復員した父は虚無感から働かず、戦 後は農業と母の担ぎ屋で暮す貧苦のどん底の中、光洋は生れ育つ。 4歳の時、父は肺結核 で死んだ。 16歳の冬が最初で、心臓に強い痛みを覚える発作を繰り返すようになる。 彼 は、これからはいつ死んでもいいような生き方をしなければなるまいと、考えた。 よく て40年の人生と思い定めて、残る20余年を有意義に生きる。 自分らしい生活を築き、 世界の知恵から学び、誰かを愛し、酒と料理の美しい食卓を愉しむ。

 母が妊娠して家を出、兄が五枚の田圃と生活苦を背負う。 臨海部の製鉄所に勤めた光 洋は、独身寮で読書と音楽に慰めを求めた。 旬の作家に有吉や曾野、庄司や五木がおり、 「ゲバラ日記」、ヘミングウェイやチェーホフやユゴーから世界のありさまや人間を学んで いった。 スペインになんとなく憧れて、いつか外国へ行くために、英語を独学した。 社 員の事故死の労災認定で会社を告発する先輩に誘われ、少し関係したことで、年収の数年 分を得、退職して世界旅行に旅立つ。 パリの丘の上の下町、ベルヴィルで絵の修業をす る日本人女性の部屋、スペインのコスタ・デル・ソルでヘミングウェイの息子と称する乞 食の家、マニラの白タクの運転手ドディの家を泊まり歩く。 ドディの妹、シングルマザ ーのラブリイの娘の教育資金に、カジノで一か八かの勝負をして得た大金を渡し、会議場 での働きぶりを見て誘われたパラオのホテルへ旅立つ。

 帰国し下落合の御留山で、新人賞を目指す作家生活に入り、佐川景子という編集者に恵 まれる。 50歳で名のある文学賞を受賞した後、優秀な編集者で未亡人、46歳の矢頭早苗 と月島に住む。 早苗は明るく、光洋をよく励ましたが、忙し過ぎて先に死んだ。

今日という日をとにかく生きて笑う。 老いても精魂を傾けることがあるのは幸せだと 思う。 たとえ十行でも佳い文章が書ければ作家の良心を維持できる。 共に暮らす素直 で勉強家のソニアは、日本永住を決意した。 ドディの孫娘だった。

                                  (轟亭・馬場紘二)

 「『桃源の水脈』を尋ねて」を7月の1121号に書きましたが、リニューアルされた大倉 集古館で、『桃源郷展』―蕪村・呉春が夢みたもの―が開催中です。 11月17日まで(月 曜休館)。 呉春、幻の屏風初公開!―蕪村から呉春へ、受け継がれる思い。 大倉集古館 は、東京都港区虎ノ門2-10-3 電話03-5575-5711  http://www.shukokan.org