「青木功一著『福澤諭吉のアジア』」読書会に参加して(2)〔昔、書いた福沢124-2〕2019/10/09 06:54

     「福沢=アジア侵略路線の元凶」説の起源

 「福沢=アジア侵略路線の元凶」説の起源はどこにあるか。 丸山眞男は「明 治国家の思想」(公刊は1949年だが、講演は46年10月、東大での歴研の連続 講演、のち岩波『丸山眞男集』第四巻)で、次のようにのべた。 福沢は民権 論と国権論が同時的課題であることを古典的に定式化したが、明治14年の政 変以後、民権論と国権論は離れ始め、日清戦争で完全に分裂した。 そしてこ の戦争の勝利で福沢は、長年の対外的独立の危機感から解放されて一時的錯覚 に陥った。 日本の近代化には、その先にますます大きな困難があるはずなの に…。 この講演を遠山茂樹が聴いていたのはほぼ間違いなく、そこから遠山 は、福沢には日清戦争論の源流としての「脱亜論」があるではないかと「日清 戦争と福沢諭吉-その歴史的起点について」(1951年『福沢研究』第六号、の ち『遠山茂樹著作集』第五巻、岩波書店)を書いたと、推測される。 服部之 総は「福沢諭吉」(1953年12月『改造』、のち『服部之総著作集』第六巻、理 論社、1955年)で、福沢がナショナリズムの悪しき伝統にとらわれたという遠 山を批判して、逆に福沢こそその伝統をつくったタフな絶対主義者だったとし た。 この遠山、服部の流れが、安川寿之輔の『日本近代教育の思想構造』1970 年10月、新評論、などの所説につながる。

 遠山、服部の考え方は、歴研メンバーに広がる。 一方岡義武の「福沢先生 とその国際政治論」(『三田評論』573号、1957年9月、のち西川俊作・松崎欣 一編『福澤諭吉論の百年』慶應義塾大学出版会、1999年6月に再録)は興味深 い論説だが、「脱亜」の「脱」の字も出て来ない。 それが岡義武「国民的独立 と国家理性」(1961年4月、『近代日本思想史講座[8]世界のなかの日本』、 筑摩書房、のち『岡義武著作集』第六巻)になると、「脱亜の時代」という言葉 を表題にして、日本が対外政策として西洋帝国主義の行動様式で突き進む時代 に使っている。 1960年代になると、岡のような実証的な学者でも、「脱亜」 を近代日本の歴史を指す言葉として使っているわけだ。 竹内好(よしみ)「日 本とアジア」(1961年、同上書。『竹内好評論集』第三巻収録、筑摩書房)、松 本三之介「国民的使命観の歴史的変遷」(1961年、同上書)も、「脱亜論」に触 れている。

 「脱亜論」に関する研究史的関心は、橋川文三の「福沢諭吉の中国文明論」 (『順逆の思想 : 脱亜論以後』勁草書房、1973年)に始まる。 のちに植手通 有が平凡社『世界大百科事典』(1988年3月)に「脱亜論」の項目を書いた。

丸山は誰が福沢「脱亜論」、近代日本史=脱亜史という見方を流行らせたのか、 別個の研究を要し、戦後の研究史を跡づける必要があると断りつつ、竹内好の 名をあげている(『丸山眞男回顧談』下巻)。 しかし実は丸山にも論文「日本 の思想」に「脱亜」の使用例があり、近代日本の歴史的コースをいっている。  岡義武は先に見たように61年論文で帝国主義と関連させて「脱亜」の時代を いう。 現在でもこうした拡張的用例が良書中に見受けられる。 例えば、油 井大三郎『なぜ戦争観は衝突するか-日本とアメリカ』岩波現代文庫、歴史的 背景を踏まえて日米の違いを書いたいい本。