“大隈重信”と“百科事典”〔昔、書いた福沢139〕2019/10/26 06:53

      “大隈重信”と“百科事典”<小人閑居日記 2002.5.11.>

 「大隈重信と福沢諭吉」について書くとすれば、「明治14年の政変」の話が、 最も重要で、面白くもあるのだが、長くなりそうだ。 それはしばらくおき、 今日は『世界大百科事典』の全文検索でひっかかってきた“大隈重信”と“百 科事典”の関係にふれる。

 日本での欧米式百科事典の歴史は苦難に満ちたものだった。 最初のものは 田口卯吉の『日本社会事彙』2巻で、1890-91(明治23-24)年に 刊行された。 欧米の百科事典にならう総合的な事典の出版を計画したのは同 文館であった。 同文館は1901(明治34)年に計画を発表し、『商業大辞 書』6巻、『医学大辞書』8巻以下、分野別大辞書を刊行し、それらを併せて『大 日本百科辞書』と名付けたが、この性急な出版事業は莫大な経費を要し、12 (大正元)年に同文館は倒産した。

 こうしたさまざまな試行を経て、本格的な百科事典、三省堂『日本百科大辞 典』が現れることになった。 1902(明治35)年、“大隈重信”を総裁に、 斎藤清輔を編集長として編纂が開始されたこの事業は、08(明治41)年に 第1巻を刊行したが、多くの困難に遭い、経済的にも行き詰まって、12(大 正元)年に三省堂が破産するに至った。 しかし、この事業の挫折は大日本帝 国の文化的な力の威信にかかわるという声もあがり、再建が計画され、19(大 正8)年に当初全6巻の計画が全10巻となって完成した。(大隈が亡くなった のは22(大正11)年) この百科事典は、明治時代の日本文化を集約した ものとして、また高い見識と良心的な編集で高く評価され、日本の百科事典の 歴史を画した、という。(なお『世界大百科事典』のこの部分の筆者は、大隈和 雄さん、大隈重信の縁者だろうか)