阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕2019/11/01 07:22

        自分で考えるということ<小人閑居日記 2002.7.22.>

 6月のワールドカップ・サッカーの熱狂ぶりをみていて、そういう私もかな りテレビを見てはいたのだが、日本人が集団で一方向に走りだす傾向が、気に なった。 日本が負けた瞬間、もう一つ上に行けたのにという声が、瞬時に圧殺 され、よくやったに世論が統一されたのには、何となく不安を感じた。 そう いえば昨年の4月頃は、小泉人気というものがあったと、思ったのである。

 このところ、そんなことを考えているものだから、阿川尚之さんの『アメリ カが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んでも、アメリカ人の個別主 義についての記述が気になる。 たとえば、たとえば、後にジャパンタイムズ のジャーナリストになる村田聖明(きよあき)さんの章。 村田さんは、日米 開戦の6か月前にアメリカへ留学し、戦争が始まると一時アリゾナの収容所に 入れられたが、10か月で出所、普通に大学生活を送る。 戦争相手である日 本人の村田さんを、当り前に遇する普通の市民が、思いがけなく大勢いる。  「目の前に敵国人が現れたとき、その人物を個人として評価する。 政府が 何と言おうと新聞が何と書こうと、自分で考え、それを遠慮なく口にする。」  「おそらく日本にも、戦争中アメリカ人の捕虜を人道的に扱い、占領地の住民 と個人として親交を深めた人はたくさんいたに違いない。 しかしどちらの国 民が、戦争という極限状況下における集団ヒステリーから比較的自由であった かと言えば、どうもアメリカに軍配を上げざるをえないだろう。」

        自分の意見、相手の意見<小人閑居日記 2002.7.23.>

 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』の山本七平さんの 章に、天皇訪米に合せアメリカへ行ってみないかといわれた山本七平さんが、 キリスト教指導者植村環(たまき)女史の戦争直後のアメリカ講演旅行のこと を思い出す話がある。 昭和21年5月渡米した植村環女史は、「石もて追われ る」ような、きわめて厳しい旅を経験する。              

 「しかし、植村女史の記録を仔細に読むと、アメリカ人の反応は同じ状態に 陥ったときの日本人の反応と違うと、山本は感じる。いかに非難すべき相手で も、その発言自体は決して非難・妨害しないのである。」   「面と向かって日本人は悪魔だと言いながら、納得すると照れずに意見も態 度も変える。植村女史は『トルーマン大統領その他知名な人々も、高圧的な態 度で自分の意見を他に圧しつけることがないかわりに、自分に納得のいかない 不審な点は、あくまでも、きく』と記した。どうも日本人とは異なる反応の仕 方だ。多数は流動的で固定しないから、『これが天下の世論だ』などと高圧的に 言ってもききめがない。『一夜にして全国民が一定“世論”のもとに一変すると いった事態は逆に起こらない』。」

丸山眞男「福沢における「実学」の転回」〔昔、書いた福沢145〕2019/11/02 07:01

          一夜漬け<小人閑居日記 2002.6.1.>

 神田神保町の岩波セミナールームで開かれた福沢諭吉協会の読書会に参加さ せてもらった。 講師は平石直昭東京大学教授、テキストは丸山眞男著『福沢 諭吉の哲学他六篇』(岩波文庫)の第二論文「福沢における「実学」の転回」で、 15日にある第2回と合せ2日間の予定だ。 平石さんの精緻な講演は、前に 土曜セミナーで聴いたことがあった。 前の晩から、一夜漬けで対象となる論 文を予習する。 予習なんて、何十年ぶりだろう。 丸山眞男さんの論文は何 とも難しいけれど、文庫本で20ページほどの短いものだから、声に出して何 とか読み進む。

 読み終って私は、恩師の故小尾恵一郎先生が最終講義で、福沢が『文明論之 概略』で、自然法則と社会法則を区別せず、ジェームズ・ワットとアダム・ス ミスの業績を並べて書いていることに、触れておられたのは、これだったのか と、あらためて気がついた。

井出孫六さんの「福沢と故郷」〔昔、書いた福沢146〕2019/11/03 07:49

      井出孫六さんの「福沢と故郷」<小人閑居日記 2002.6.20.>

 知人のMさんが、ホウプ有限会社という印刷屋さんの広報誌を送ってくれた。  彼の原稿に、私の名前が出て来るかららしい。 その『うらら』46号の別の 文章を読んでいたら、福沢諭吉が出てきた。 それを読んで、Mさんに知らせ たメール、下記の通り。

 『うらら』46号、パラパラ見ておりましたら、林喜代志さんの「ツバキの 節分」の中に、福沢諭吉が出てくるではありませんか。 33頁、井出孫六さ んの作品からの引用という部分です。 曰く、  「福沢諭吉は幕末動乱の中で幼くして江戸に出た。生涯のあいだに福沢が故 郷に帰ったのは祖母の葬儀のとき一度だったか、二度だったか。」

 ご存知のように、福沢が江戸に出たのは、数え25歳の時で、それ以後、中 津には4回帰っています。

 (1)元治元(1864)年3月~6月、数え31歳、小幡篤次郎ら6人の 青年を連れて来た。

 (2)明治3(1870)年10月~12月、37歳、母、姪を伴なって帰 京。 暗殺の危険にさらされる。

 (3)明治5(1872)年4月~7月、39歳、中津市学校視察、殿様奥 平一家を奉じて帰京。

 (4)明治27(1894)2月~3月、61歳、長男次男を伴ない展墓の ため。

 「祖母の葬儀」というのを、私は聞いたことがありません。 井出孫六さん は、昔『峠をあるく』という本を読んで、感心したことがありましたが、これ はどうも、杜撰というほかなく、気に入りません。

福沢諭吉、マーマレードを作る〔昔、書いた福沢147〕2019/11/04 07:18

     福沢諭吉、マーマレードを作る<小人閑居日記 2002.7.9.>

 『福沢諭吉書簡集』第七巻(岩波書店)で、面白い手紙を見つけた。 明治 26年7月2日付け松岡勇記宛書簡(書簡番号1779)、松岡勇記は緒方塾の 同窓で医師、栃木病院長、茨城病院長、根室病院長などを歴任、この時は郷里 の長州阿武郡に隠退していたという。

 今日のような「俄に暑気を増して盛夏の如し」という挨拶で始まるこの手紙 で福沢は、「子供打揃ひ喜び候て毎日毎日いただき居候」と松岡が送ってくれた 夏みかんの礼を述べ、「マルマレット」の作り方を教えている。 曰く「かの皮 は裡面の綿のやうなる処を去り、表面の方を細に刻み、能(よ)くうでこぼし て大抵苦味を除き、一夜水にひやして、更に砂糖を入れて能く能く煮詰めし後 ち、所謂(いわゆる)マルマレットと為」る。 「但し砂糖は思切て沢山に用 (もちい)、凡そ皮のうでたるものと等分位に致し、或は水飴を少し混ずるも可 なり」                

 舶来屋で買えば、小さな缶詰(直径5×高さ7.5センチくらいの缶の略図 が描いてある由)で「二十五銭位の小売なり。 馬鹿に高きものに御座候」と ある。 明治26年の25銭がどのくらいの値段かを、週刊朝日『値段の文化 史』で調べると、明治24年の朝日新聞月決め定価が28銭、明治28年の上 等酒が一升21銭、明治28年の天丼(並)が4銭だった。

仲間うちの情報交流会〔昔、書いた福沢148〕2019/11/05 07:02

      仲間うちの情報交流会<小人閑居日記 2002.7.10.>

 私の学校には卒業25年目に現役の卒業式に呼んでくれるという習慣があっ て、その機会に学校への手土産の寄付を集め、名簿を整備したりする。 その 時、幹事役を務めた仲間(私などは、学生時代には全く知らなかった連中が多 いのだが)が、その後もいろいろな機会に集まっている。 その一つに、情報 交流会というのがある。 いろいろな業種や趣味の人間がいるので、回り持ち で、それぞれの専門や関心分野の話をし、それを聴いて勉強しようというので ある。 年に4~6回、会場を借り、弁当をとって、一夕をともにする。 幹 事が熱心で親切にやってくれてきたので、足掛け12年も、続いている。 最 先端や極秘に類する話題などもあり、いろいろな話が聴けて、まことに有難い 会である。

 話の苦手な私も、順番なので、前に一度「個人通信の楽しみ」というような 話をしたことがあった。 昨日は、予定していた人が病気になって出来ず、ま たお鉢が回ってきたので、「福沢先生よもやま話」というのをやるはめになった。  それがひと月ほど前にわかった。 閑人には、まことに結構な宿題で、あらた めて福沢諭吉を勉強する、充実した時間が持てた。 だが、話がまずいうえに、 ちょっといろいろ詰め込みすぎて、うまくいかなかったが、まあ「あんなもの」 かもしれない、と思っている。 スピーチを演説と訳し、その習慣を広めよう とした福沢先生には、顔向けできないのだけれど…。