『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』〔昔、書いた福沢152〕2019/11/09 06:59

       川路聖謨と広瀬淡窓<小人閑居日記 2002.8.12.>

 積んどく本の吉村昭著『落日の宴 勘定奉行川路聖謨(としあきら)』(講談 社)を、たまたまぱらぱらやっていたら、川路聖謨が日田の生れであった。 日 田は代官所のあった幕府の天領であった期間が長く、それも西国筋郡代の在陣 地として九州幕領支配の一大中心地だった。 4歳で江戸へ出て、父は徒士組、 養父も小普請組だったのに、川路聖謨は異例の出世をして勘定奉行にまで昇る。 

 嘉永6(1853)年ペリーの黒船についで、ロシアの使節プチャーチンが 長崎に来て開国を要求した時、川路は筒井政憲とともに交渉のため長崎に派遣 される。 『落日の宴』によれば、そのぶらかし交渉が一応成功しての帰路、 佐賀の田代という所に、日田から叔父や代官、神主、庄屋など沢山の人がきて いて出迎える。 勘定奉行というのは、たいへんな格だということがわかる。

 その日田からの一行のなかに、広瀬淡窓もいた。 川路は大儒者がきたこと に恐縮し、丁重に遇した。 淡窓にはみずから縮緬の羽織を着せかけ、しばら くの間、話し合ったという。

 数え21歳の福沢諭吉が、中津から蘭学修業のため長崎へ向かうのは、その 翌月のことである。

          幕末…二つの動乱<小人閑居日記 2002.8.13.>

 吉村昭さんの『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』であるが、ロシアの使節プチ ャーチンとの長崎での交渉経過のあたりまでは、ちんたらしていてなかなか進 まなかったのが、ペリーの脅しに屈した江戸幕府が日米条約を先に結んだのを 知ったプチャーチンが、再びディアナ号で大坂沖に現れ、下田で交渉に入った あたりから、俄然面白くなる。

 以前、石橋克彦さんの岩波新書『大地動乱の時代』で読んだように、「安政東 海地震」の大津波が、交渉地下田を襲うからである。 石橋さんは、黒船と大 地震を「幕末…二つの動乱」と書いていた。

        プチャーチンと川路聖謨<小人閑居日記 2002.8.14.>

 「安政東海地震」の大津波が日露の交渉地下田を襲って、下田の町は家数8 75軒の内841軒が流失・皆潰、30軒が半潰・水入、無事の家はたった4 軒という壊滅的な被害を受ける。 ディアナ号も、龍骨が折れるなどの損傷を 受け浸水、ほとんど航行不能となる。 修理のため戸田(へだ)村へ回航中、 天候が急変して沈没し、戸田で代船となる木造スクーナーを建造することにな った。 学生時代、戸田でクラブの海水浴合宿をした。 沼津から船で行った が、途中、海が荒れ、怖い思いをしたことがある。

 地震後1か月の中断の後、日露の交渉は再開され、陽暦1855年2月7日、 日露和親条約が締結された。 幾多の困難を乗り越えて、ここまでこぎつけた プチャーチンを、川路聖謨は「真の豪傑」と賞賛し、プチャーチンも川路聖謨 の聡明さと鋭い感性に感嘆し、類い稀な人物だと激賞している。 外交交渉で は手ごわい敵同士ではあったけれど、協力して一仕事なしとげたパートナーへ の敬意と親愛の情が感じられる。 この条約で、千島については、エトロフ島 以南は日本領、ウルップ島以北はロシア領と明記されている。 それが今日の わが国の主張の根拠となっているため、2月7日が「北方領土の日」とされて いる。

         六十過ぎての健康法<小人閑居日記 2002.8.15.>

 老中堀田正睦とともに慶喜擁立に動いていた川路聖謨は、井伊直弼の大老就 任によって左遷され、安政の大獄で御役御免隠居蟄居を命じられた。 井伊暗 殺後、生麦事件が起こると、外交折衝の経験を買われて、再び外国奉行にひっ ぱり出される。 だが、まもなく孫の太郎が結婚し川路家の当主としての体裁 も出来たので、老齢を理由に高禄を辞退し、御役御免となる。 65歳、歯は 抜け耳は遠く、白くなった髪はうすれて丁髷は細くなっていたが、早朝の槍の しごき、太刀の素振り、半ば走るように歩くことを日課にし、召されればいつ でも御奉公ができるように心掛けていた。 厳冬2月のある朝、槍を二百回ほ どしごいたところで、倒れて半身不随になる。

 福沢諭吉の健康法も、毎日の米搗き(玄米を精製して白米にすること)と居 合抜き。 どちらもかなり激しい運動だ。 米搗きの臼を搗き潰して、64歳 の時、五つ目の米臼を新調している。 「居合数抜記録」というのが『全集』 20巻395-396頁にある。 明治26年11月17日 居合数抜 千本、 午前9時15分より12時まで640本、午後2時より3時半まで360本。  刀は、鍔元より長さ2尺4寸9分(75.5センチ)目方310匁(1162 グラム)。 野球のバットより重い日本刀を、刃鳴りのするほどの速さで力いっ ぱい振り回して斬り込むのだから大変だ。 土屋雅春さんは『医者の見た福沢 諭吉』で、これは今でいうジョギングのしすぎのようなもので、晩年の大患(脳 卒中)の遠因の一つになったといっている。 川路も福沢も、体力・気力には 常人をはるかに超えるものがあった(だから大きな仕事をしたともいえる)が、 齢を取ったら、運動はほどほどにしたほうがよいようだ。