丸山眞男著「福沢諭吉の哲学」読書会(1)[昔、書いた福沢156-1]2019/11/20 07:09

        福沢諭吉の「考える方法」<小人閑居日記 2002.11.12.>

 9日と、次の16日の土曜日、2回、福沢諭吉協会の読書会に参加させても らっている。 テキストは丸山眞男著『福沢諭吉の哲学 他六篇』(岩波文庫) の、表題にもなっている第三論文「福沢諭吉の哲学-とくにその時事批判との 関連」で、講師は協会理事の松沢弘陽さん。 北海道大学法学部教授を長く務 められ、『福沢諭吉選集』第一巻の解説をされるなど、慶應の外での福沢研究の 権威である。

 例によって、一夜漬で論文を読む。 難しいけれど、これは面白い。 もっ と早く読めばよかったと思う。 哲学というのは、考える方法、考え方という ことだ。 福沢には、生涯を通じて一貫した「考え方」(思惟方法)と、何を大 事にするかという基準(価値意識)があった。 それが、福沢の時事問題に対 する態度や批判の方向を決めている、というのだ。 丸山さんは、それを探り 出し、この論文で明らかにしようというのだ。

         今、ここで、何が大切か<小人閑居日記 2002.11.13.>

 福沢の膨大な言論著作は、そのほとんどがきわめて具体的な時事問題に対す る所論であり、ほぼ純粋に理論的な著作としては、わずかに『文明論之概略』 を挙げることができるにすぎない。 その『概略』の初めに、「議論の本位を定 (さだめ)る事」として「軽重、長短、善悪、是非」などは相対的なものであ る、二つのものを比較してみなければ、軽重善悪を論ずることができない、こ のように比較によって重と定まり、善と定まったものを「議論の本位」と名づ ける、と言っている。 これを丸山眞男さんは、福沢の全著作に共通する「も のの考え方」を最も簡潔に要約しているという。 その意味するところは、(難 しい言葉だが)「価値判断の相対性の主張」だという。

 ものごとの価値は、それが置かれた具体的環境に応じて、それがもたらす実 践的な効果との関連において、はじめて確定されなければならない。 時代や 場所というシチュエーションを離れては、価値決定をすることができない。 福 沢が社会、政治、文化のあらゆる領域の問題に対して、具体的な批判をする場 合はすべて、その時々の現実的状況に対する“処方箋”として書いている。 一 定の具体的状況が、福沢に一定の目的を指定させる。 そうしてこの目的との 関連において、はじめて事物に対する福沢の価値判断が定まって来るのだ。

 ヨーロッパ列強の進出によって、独立が脅かされていた当時、「国体を保つこ と」(国の独立、植民地にされないこと)が、最も重要な「目的」(課題)であ った。 その「目的」のための手段として、福沢は西欧近代文明の導入を考え たのであった。 だが一方で福沢は、西欧文明すら半開にくらべて、わずかに 文明というのであって、至善至美ではない、文明の一層の進歩は現在の西欧文 明をも野蛮とみなす時期が来るだろう、と相対的に考えるのである。

        福沢の「考え方」とプラグマティズム<小人閑居日記 2002.11.14.>

 丸山眞男さんは、こういう福沢の「考え方」と、もっとも近い西洋哲学とい えば「プラグマティズム」だろうという。 念のため「プラグマティズム」を 『広辞苑』で引けば、「事象に即して具体的に考える立場で、観念の意味と真理 性は、それらを行動に移した結果の有効性いかんによって明らかにされるとす る立場」とある。 丸山さんは、福沢の言葉「物の貴きに非(あら)ず其働(は たらき)の貴きなり」を引いて、事物の価値を事物に内在した性質としないで、 つねにその具体的環境への機能性によって決定していく福沢の考え方は、まさ にプラグマティズムのそれだという。

 このことは偶然の類似ではないと、丸山さんは言う。 プラグマティズムは デュウィ(デューイ)のいうように、近代自然科学を産んだルネッサンスの実 験的精神の直接的継承者で、科学主義を主体的行動的精神と再婚させようとす るものだ。 6月の読書会の「福沢における実学の転回」論文で読んだように 「近代自然科学をその成果よりはむしろそれを産み出す精神から捉え」たこと が福沢の実学の本質であるならば、両者の「考え方」(思惟方法)には著しい共 通性がみられても不思議でない、と。 そして福沢においては、自然が、ヨリ 多く人間の主体的操作(実験)によって不断に技術化さるべき素材として、明 るい展望をもって現れているのも、福沢の考え方が根底においてプラグマティ ックな流動性を帯びていることと無関係ではない、と言う。 実験主義を示す 福沢の言葉「凡(およ)そ世の事物は試みざれば進むものなし」「開闢(かいび ゃく)の初より今日に至るまで或(あるい)は之を試験の世の中と云て可なり」 (概略、巻之一)

          金科玉条にすがる怠慢<小人閑居日記 2002.11.15.>

 このように、福沢の場合、価値判断の相対性の強調は、人間精神の主体的能 動性の尊重とコロラリー(数学でいう「系」、「一つの定理からすぐ証明される 命題」か)をなしている。 いいかえると、価値をあらかじめ固定したものと 考えずに、具体的状況に応じて絶えず流動化し、相対化するということは、強 靭な主体的精神にしてはじめてよくできることである。 それは個別の状況に 対して一々状況判断を行ない、それに応じて一定の命題ないし行動規準を立て つつ、しかもつねにその特殊なパースぺクティヴに溺れることなく、一歩高所 に立って新しい状況に対応しうる精神的余裕を持っていなければならない。

 これに反し、主体性に乏しい精神は、状況が変ったり、あるいはその規準の 前提が意味を失った後でも、これを金科玉条として墨守する。 この現象を福 沢は「惑溺(わくでき)」と呼ぶ。 それは人間精神の怠惰を意味する。 つま りあらかじめ与えられた規準を万能薬として、それによりすがり、価値判断の たびごとに、具体的状況を分析する煩雑さから逃れようとする態度だからだ。

 こういう福沢の精神態度は、抽象的公式主義に挑戦する。 福沢が、儒教思 想を攻撃したのは、それが善悪正邪の絶対的固定的対立観にもとづいて、価値 判断の絶対主義を代表しているからだった。 丸山さんは、福沢が維新前後に 唱導した自由民権論が、のちに国会開設運動として国民的に沸き上がろうとし た時、彼が意外なほど批判的な、というよりむしろ軽蔑的な態度(「駄民権論者」 と言った)を示したのは、当時の民権論者の声高い言説のなかに、この「公式 主義」があまりにも大きな倍音を伴なっていたことが、福沢の感覚をいらだた せたという事情も無視してはならない、という。