丸山眞男著「福沢諭吉の哲学」読書会(2)[昔、書いた福沢156-2]2019/11/21 07:26

      自由な議論による進歩<小人閑居日記 2002.11.26.>

 しばらく休んでいた丸山眞男さんの「福沢諭吉の哲学」論文の続きを読む。  第四節の「さわり」を書き出してみる。    「文明の要は人事を忙(せ)はしく需要を繁多ならしめ、事物の軽重大小を 問わず多々益(ますます)これを採用して益精神の働を活発ならしむるに在り」 という『概略』に示された進歩観は最後まで維持された。 進歩とは事物の繁 雑化に伴う価値の多面的分化である--福沢の言論・教育を通じての実践的活 動はつねにこのような意味における進歩観によって方向づけられていた。 「唯 真一文字に人の智識を推進し、智極りて醜悪の運動を制せんと欲するものなり」  福沢は社会関係の複雑多様化の過程をどこまでも肯定し祝福した。 議論によ る進歩、その前提として、他説に対する寛容、パティキュラリズム(排他主義) の排除--等々、福沢の言説に繰り返しあらわれる主張は、彼の社交(人間交 際)や演説・討論に対する異常な熱意とあいまって、人々の交渉関係を能う限 り頻繁にし、パースペクティヴを出来るだけ多様化しようとする、ほとんど衝 動的なまでの欲求を物語るものである。

 福沢は「自由」を具体的に規定して、価値決定の源泉が多元的となるところ、 そこに必ず「自由」は発生する筈だと考えた。 「自由の気風は唯多事争論の 間に在て存するものと知る可し」(概略、巻之一) 自由と専制との抵抗闘争関 係そのもののうちに自由があるのであって、自由の単一支配はもはや自由では ない。 ここに「自由は不自由の際に生ず」という福沢の重要な命題があらわ れる。 福沢の政治的見解に現われた「漸進主義」の哲学的基礎はまさしくこ こにある。 「文明の進歩は必ず進取の主義に依らざるはなし」 「保守」に 対する「進歩」の根源的優越性の確認である。

 いかなる思想も世界観も、それが画一的支配をめざす限り、それは福沢にと って人類進歩の敵だった。 福沢は「自由は強制されない」事を確信したから こそ、人々にいかなる絶対的価値をも押しつける事なく、彼等を多元的な価値 の前に立たせて、自ら思考しつつ、選択させ、自由への途を自主的に歩ませる ことに、己(おの)れの終生の任務を見出だしたのであった。

    官への集中を排し、民間を活発に<小人閑居日記 2002.11.28.>

 丸山眞男さんの「福沢諭吉の哲学」の第五節。 福沢は、政治的権力に一切 の社会的価値が集中しているような社会を嫌った。 宗教・学問・芸術・経済 等あらゆる文化領域の政治権力への凝集傾向、「権力の偏重」を摘発した。 そ れは社会意識の凝集化傾向に対する福沢のほとんど本能的な警戒と反発に由来 している。 「日本国の人心は動(やや)もすれば一方に凝るの弊あり」とい い、日本にくまなく見られる社会と精神のしこりを揉み散らす事をもって、日 本近代化(開化)の具体的課題とし、このいわばマッサージ師の様な役割を自 らに課したのである。

 開化と進歩のためには、政治的権力の価値独占を排除して、これを広汎な社 会分野に分散させ、国民的エネルギーをこの多面的な価値の実現に向わせるこ とが大切だと、福沢は考えた。 「官民の軋轢を解て世情を穏かならしむるの 要は、人民をして政府の地位を羨むの念を断たしむるに在り。 西洋諸国の(中 略)官途なる者は社会中の一部分にして、官途外自から利福栄誉の大なるもの ありて、自ら人心を和すべし」(時勢問答、全集八) これは福沢の時務論とし ての官民調和論が、福沢の「原則」としての独立自尊主義といかに内面的に結 びついているかを、簡潔に表明している。 福沢がとくに実業社会の発展に力 を注ぎ、慶應義塾の教育も実業人の養成に主眼を置いたということも、単に明 治国家の当面の要求に応ずるという以上に、深く彼の根本的な課題--価値の 分散を通じての国民精神の流動化--に根ざしていたことを看過してはならな いのである。

 付記 おかげさまで<小人閑居日記>が一年続きました。

      人間交際の活発化と政治形態<小人閑居日記 2002.11.29.>

 第六節。 福沢が文明を「人の智徳の進歩」と簡潔に定義した際にも、その 智徳の担い手は少数の学者や政治家ではなくて、どこまでも人民大衆だった。  人間精神の在り方も、福沢において個人の問題としてでなく、「一国人民の気風」 として社会全体を問題にした。 その「一国人民の気風」の進化は、何によっ て促されるのだろうか。 第四節の「さわり」でみたように、社会関係の複雑 多様化を求めた福沢は、社会的交通(人間交際)が頻繁になることこそが、一 切の変化の原動力だとした。 その点で福沢の関心を最も惹きつけたのは、1 9世紀初頭の産業革命で、蒸気船、蒸気車、電信、郵便、印刷の発明工夫によ って、交通手段に長足の進歩がもたらされ、人間の身体が楽になっただけでな く、その内部の精神を動かして智徳の有様も一変したとみる。 福沢は、その 人間社会の運動力の根本を、まず蒸気力に見、鉄に見、後年は電気に見た。 

 前に見たように、福沢がヨーロッパ近代文明の価値をも相対的にのみ認めた のは、それが「現在までの」交通関係とその基礎にある技術力に制約された歴 史的形態にほかならないからである。 だから福沢は、現在の自由民主政がヨ リ「新しい」政治形態によって超越される可能性にも眼を開くことができた。  このような政治形態と交通技術の発展との間に存在するギャップのうちにこそ、 福沢は19世紀中葉以降における諸々の社会的闘争の発生原因を見た。 交通 技術の飛躍的発展が人民相互を精神的物質的にも未曾有の緊密な相互依存関係 に置いたことによって、いまや政治の舞台に膨大な「大衆」の登場が不可避に なったことを、明治15、6年頃、福沢は驚くべき鋭利な眼光で洞察したので あった。

人生戯れと知りながら、真面目に勤める<小人閑居日記 2002.11.30.>

 丸山眞男さんの「福沢諭吉の哲学」もいよいよ最終第七節、11月も今日で 終りだ。 人間精神の自然に対する勝利の讃歌を終生謳(うた)いやまなかっ た福沢は、宗教の意義を「愚夫愚婦」「凡俗社会」の感化という徹底した実利的 観点からみとめたにすぎなかった。 しかし、福沢は福沢なりの人生全体の意 義に対する終局的な「問い」とそれへの「安心(あんじん)」観を持っていた。

 宇宙と自然の人智の想像を絶した「無限」の神秘性と圧倒的な支配力の前に は、わずかに百年の寿命も得難い人間など、塵やホコリ、ボウフラや蛆虫のよ なものに過ぎない。 「人間万事小児の戯(たわむれ)」としながら、福沢の論 理はここで急転する。 「人生本来戯と知りながら、此一場の戯を戯とせずし て恰(あたか)も真面目に勤めるこそ蛆虫の本分なれ。 否な蛆虫の事に非(あ ら)ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり」(福翁百話) 人生を戯 と観じ、内心の底にこれを軽く見ることによって、かえって「能(よ)く決断 して能く活発なるを得」、同時に自己の偏執を不断に超越する余裕も生まれて来 る、というのだ。  「人生を戯と認めながら、其戯を本気に勤めて倦(う) まず、倦まざるが故に能く社会の秩序を成すと同時に、本来戯と認るが故に、 大節に臨んで動くことなく憂ふることなく後悔することなく悲しむことなくし て安心するを得るものなり」(福翁百話) 丸山さんは、真面目な人生と戯れの 人生が相互に相手を機能化するところに、はじめて真の独立自尊の精神がある、 という。

 丸山眞男さんの「福沢諭吉の哲学-とくにその時事批判との関連」論文

序  福沢諭吉の「考える方法」<小人閑居日記 2002.11.12.>
一  今、ここで、何が大切か<小人閑居日記 2002.11.13.>
二  福沢の「考え方」とプラグマティズム<小人閑居日記 2002.11.14.>
三  金科玉条にすがる怠慢<小人閑居日記 2002.11.15.>
四  自由な議論による進歩<小人閑居日記 2002.11.26.>
五  官への集中を排し、民間を活発に<小人閑居日記 2002.11.28.>
六  人間交際の活発化と政治形態<小人閑居日記 2002.11.29.>
七  人生戯れと知りながら、真面目に勤める<小人閑居日記 2002.11.30.>

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