伊藤彌彦さんの「明治14年の政変と福沢諭吉」[昔、書いた福沢159]2019/11/24 08:03

        明治14年の政変<小人閑居日記 2002.12.10.>

 7日福沢諭吉協会の第88回土曜セミナーで、伊藤彌彦同志社大学法学部教 授の「明治14年の政変と福沢諭吉」という講演を聴いてきた。 伊藤さんの 話に入る前に「明治14年の政変」を復習しておく。 当時政府部内で最も有 力、進歩的な参議大隈重信(肥前佐賀出身)が、明治天皇の東北北海道巡幸に 供奉して旅行中、薩長藩閥の政治家が相謀ってその罷免を決め、10月11日 大隈が帰京すると、御前会議で大隈参議の罷免、北海道開拓使官有物払い下げ の中止、明治23年の国会開設が決定され、翌日発表されたクーデター類似の 事件である。 

 明治12年夏の福沢の『国会論』の頃から、国会開設運動が盛り上がってき た。 大隈は14年3月、15年末に選挙、16年に国会開設、それも議院内 閣制によるという急進的な憲法私案をつくった。 7月には、北海道開拓使官 有物払い下げ問題がおこる。 明治4年から開拓使は1千4百万円を投じて北 海道開拓を進めてきたが、時価3千万円といわれたこれを、無利息30年賦、 38万円余で、背景に五代友厚ら薩長の人物がいる民間会社に払い下げること になった。 福沢系の新聞を中心に、新聞はこれを厳しく批判した。 払い下 げの競争に敗れたのは、大隈と親しい三菱だった。 政変は、大隈が福沢や三 菱の岩崎弥太郎と謀って、政府を転覆しようとしたという流説があり、政府上 層部がそれを信じたからのようである。 大隈の辞職とともに、慶應義塾出身 者で官吏になっていたものは、ほとんど一斉に罷免された。 矢野文雄、犬養 毅、尾崎行雄の名がその中にある。

 これより先、13年末、井上馨から福沢に「官報」(といっても政府が支援す る責任ある「新聞」)の発行への協力依頼があり、国会開設の決意も聞かされた。  14年1月には、福沢、井上に伊藤博文、大隈も加わって、交歓の場が持たれ た。 政変で、この話も立ち消えになり、福沢は自分で『時事新報』を創刊す ることになる。

 明治14年の政変によって、井上毅(こわし)の起案によるプロシャ型憲法 にもとづく天皇制国家体制の方向が定まったのである。 これより少し前から 復古的な教育、徳育の復活も行なわれた。

        福沢と明治14年の政変<小人閑居日記 2002.12.11.>

 伊藤彌彦さんは、福沢は『自伝』で明治14年の政変を自分の人生における 「ささいな出来事」と無視してみせたけれど、実はその犠牲者で、深い手傷を 負った、その証拠に『自伝』はそれまでの詳しさに比べ明治14年以降のこと をほとんど語らなくなっている、という。 福沢が一貫してこだわり続けたも のは、文明社会(自力社会、市民社会)と国民国家の形成であり、そのために 育英事業家(慶應義塾)、ジャーナリスト(時事新報)として新日本と新日本人 の創出をこころざした。 その背景には、天皇制国家と臣民国家という明治体 制への違和感があり、日本国家のつくり直しの意図があったと思われる。 し かし政変の代償は大きく、福沢のそれ以降の明治史認識、国家認識を誤らせる ことになった(天皇制国家への批判がもっと強くてもよかった、ワキが甘くな った)。

 明治維新は「静かな革命」だった。 流血が少ない。 攘夷といっても、殺 された外人は少ない。 ハワイ大のジョージ・アキタ教授(?)は、明治14 年の政変で大隈が殺害されなかったのは不思議だといっているという。

 福沢が『自伝』で「十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあ る」と書いてあるのは『明治辛巳(しんき)紀事』(全集20巻232頁)とい う文書だ。 明治14(1881)年は干支で辛巳(かのと・み)の年にあた る。 その60年後の辛巳は昭和16(1941)年、太平洋戦争開戦の年で ある。 その60年後が昨年、平成13(2001)年だったが、何が起こる かと思ったら、9・11同時多発テロ事件が起きた。 昭和16年に生れ、昨 年還暦を迎えた私には、興味深い話だった。 明治14年の政変や太平洋戦争 開戦までの時間的な「ものさし」が得られ、身近な感じになった。

 伊藤さんによれば、井上毅(こわし)は当初二つの案をつくったという。 採 用されたクーデターでプロシャ型憲法へ進む案と、もう一つイギリス型の立憲 君主制を採り福沢諭吉を起用して政党をまかせようという案だった。 もし、 後者が採用されていたら、その後の日本の歴史はまったく違うものになってい たであろう。