小栗上野介忠順の提灯を持つ[昔、書いた福沢162]2019/11/27 06:59

    一本のネジから始まった日本の近代化<小人閑居日記 2003.1.12.>

 ちょうど小栗上野介のことを考えている時に、NHKが「その時、歴史が動 いた」という番組で、8日にペリー来航150年「ニッポン開国」を特集した 後、「小栗上野介」を再放送した。 ペリーは後回しにして、小栗の「歴史が動 いたその時」は、明治4(1871)年2月8日の横須賀造船所開業の日。

 万延元(1860)年、日米通商条約の批准書を届けるための遣米使節団本 隊の実質的なリーダーとしてアメリカに渡った小栗は、咸臨丸で随行してサン フランシスコだけで帰ってきた勝海舟、木村喜毅、福沢諭吉、中浜万次郎など と違い、ワシントンやニューヨークほかアメリカ各地を旅行し、ワシントンの 造船所では工場で蒸気で動く旋盤などの機械を見て「我が国にも、このような 工場や機械を持った施設を作りたい」と痛感し、その機械が生み出した1本の ネジを持って帰って来た。

 その年11月小栗は軍艦奉行になったが、ロシアが対馬に上陸する事件が起 こり、勝海舟のイギリスに頼んで追っ払ってもらう案でその解決が計られたた め、辞職する。 8か月後、長州が幕府に叛旗をひるがえしたため、勘定奉行 に引っ張りだされ、上野介となり、莫大な戦費を調達するため、抜本的な財政 改革に手を付ける。 小栗は、大名を廃止し、藩を郡や県に改め、徳川将軍を 大統領とする国家体制による近代的な統一国家を構想した。 そのため総花的 な財政でなく、一点集中主義を採って、横須賀造船所にかけた。 小栗の「土 蔵付きの売家」の予言通り、それは日本の近代工業化の中核となり、日露戦争 での日本海海戦の勝利に結びついた。 小栗がアメリカから持ち帰った1本の 機械彫りのネジは、群馬県倉渕村権田の東善寺に保存されているそうだ。

        小栗の提灯を持つ<小人閑居日記 2003.1.13.>

 きのう大切なことを書き漏らした。 横須賀造船所は慶応元(1865)年 9月27日に建設が開始されたが、最初に工場に設置されたスチーム・ハンマ ー(マザー・マシン、母なる機械と愛称され、いろいろな機械等の材料をつく った)は、じつに平成9年まで、130年稼働したという。 マザー・マシン の名のとおり、文字通り日本近代化の母となった機械であった。

 明治新政府は、小栗が構想した近代的な国家体制を、そのまま実施したのだ と、大久保利通なども言っていたという。 それほどの、日本近代化の父とで もいうべき人物が、逆賊として斬首されてしまったために、勝海舟などとくら べても、圧倒的に知名度が低いのは、まことに気の毒である。 せいぜい喧伝 したいと思った。 地図で群馬県倉渕村権田をさがしたら、「倉渕」は高崎から 入った、安中の北、榛名山の麓にあった。

       勝敗の分れ目「局外中立」<小人閑居日記 2003.1.14.>

 官軍が江戸に迫っていた慶応4(1868)年1月13日、江戸城での評議 で、小栗上野介は徹底抗戦を主張し、官軍の半分が箱根を越えたところで、圧 倒的に優勢な幕府の海軍力を使って分断し、退路を断つ作戦を提案した。 将 軍慶喜が、これを採らず、小栗は勘定奉行を解任される。 「もし」小栗案が 採用されていたら、幕府は勝利していたかもしれないし、内戦が拡大して大混 乱になっていたかもしれない。 どちらにしても、フランスの影響が決定的な ものになるか、列強が干渉に乗り出すかして、まったく別の近代日本があった だろう。 慶喜の弱腰の決定が、結果オーライであったかもしれないのだ。

 幕末の戦争の勝敗を決定づけたものは、「局外中立」だった。 英国公使パー クスは、天皇政府が旧幕府に宣戦を布告して、それを外国代表に公布し、両政 権を交戦団体として、そのおのおのに武器の供給を禁止させる国際法上の「局 外中立」というものがあることを教え、1月21日の東久世通禧の要請にもと ずき、英・米・仏・蘭・普・伊6国代表は連日会議を開いて検討した。(『明治 維新の舞台裏』) 1月25日、イギリスが「局外中立」の布告したので、ロシ ア、オランダ、アメリカなども追随し、このため旧幕軍に軍事顧問団を派遣し ようとしていたフランスも、「局外中立」の立場にたたざるをえなくなった。 こ のため軍事顧問団のブリュネ砲兵中尉などは、のちに五稜郭の戦いで旧幕軍に 参加するため顧問団を脱走、軍事裁判にかけられたりしている。(松本健一著『開 国・維新』)

         「ニッポン開国」<小人閑居日記 2003.1.15.>

 小栗上野介が長くなった。 8日放送「その時、歴史が動いた」の「ニッポ ン開国」の話を書いておく。 第一部「ペリーの知られざる外交戦略」では、 ペリーが日本の制度や日本人の気質、考え方、交渉のやり方など、かなり深く 日本研究をしてきて、高いレベルと交渉する、期限を切る、強硬姿勢を取る(た だし、武力の行使は禁止されていた)など戦略をもって、交渉に臨んだことが 扱われた。 そして通商を拒絶する日本の主張には期限をつけて譲歩し、列強 に先駆けて日本を「開国」させる実を取って、嘉永7(1854)年3月3日、 日米和親条約締結に成功する。

 第二部「日本全権、決死の通商条約締結」では、すご腕のハリスに対し、日 本側の老中首座堀田正睦(まさよし)、全権井上清直と岩瀬忠震(ただなり)が、 健闘したことが描かれた。(岩瀬については、「等々力短信」436,437, 438号で取り上げたことがある) 安政4(1857)年10月26日、堀 田邸に乗り込んで、清国を制圧した英仏が武力介入してくる前にアメリカと通 商条約を締結するのが、日本にとって一番有利であるとしたハリスの演説を、 勘定奉行の川路聖謨(昨年8月の<日記>参照)らは172項目にわたって子 細に分類検討し、ハリスの虚偽を14か所も見破っていることが、北大井上勝 生教授らの最近の研究で明らかになったという。 ハードな交渉の末、安政5 (1858)年6月19日、日米修好通商条約は調印されるが、2か月前大老 に就任していた井伊直弼によって、3人の功労者は天皇の勅許を得ずに調印し た責任を取らされることになる。