松崎欣一さんの「草稿・演説・演説記録-福沢先生の「演説」」[昔、書いた福沢163]2019/11/28 07:01

       第168回福沢先生誕生記念会<小人閑居日記 2003.1.10.>

 きょうは福沢諭吉の第168回目の誕生日。 三田で開かれた誕生記念会に 出かけた。 志木高校の教諭で、福沢研究センター副所長、松崎欣一さんの記 念講演があると聞いたからだ。 松崎さんは短信の読者でもある。 演題は「草 稿・演説・演説記録-福沢先生の「演説」」。 福沢は演説館にかかっている肖 像画のように、腕を高いところで組んで、厳しい顔で、しゃちほこばって演説 したのではなく、いろいろな証言から、荘重さはなく、べらべらと、時に下司 ばった言葉や爆笑を誘う講釈師流の調子も交え、平易で、俗な言葉で、自然体 でじゅんじゅんと説いたようだ、という。 福沢は、人々がそれぞれの意思を 明確に伝え、新しい知識を得るため、智見を集め、交換し、散ずる手段として の演説・談話・討論の重要性を説き、多くの人の前で話をすることの試行錯誤 を実践したのは、それが生きた学問を進めると考えたからだ。 その実践は、 日本の話言葉の創出であり、それがまた言文一致の書き言葉の創出へとつなが った、という。

 記念会の冒頭、ワグネル・ソサィエティーの小編成のオーケストラをバック に幼稚舎生の「福澤諭吉ここに在り」の合唱があった。 佐藤春夫作詞、信時 潔作曲。 「一 平等自由の 世の中に 独立自尊の 人が住む 世界の日本  つくろうと 若者たちに 呼びかけて 福澤諭吉 ここに在り」 その後、上 野の戦争の時、福沢ひとり落ち着いて、いつもの通り授業をしたエピソードを 歌い、「五 立ち騒ぐまい 学生よ 戦する人 多けれど 勉強するのは 我ら だけ この日我らがなまけては 洋学の道 あとを絶つ」「六 洋学の灯は 消 すまいぞ これが消えれば 国は闇 我らのつとめ 忘るなと 十八人を 励 まして 福澤諭吉 ここに在り」。

 小泉信三賞全国高校生小論文コンテストの審査報告と表彰があり、受賞者5 名のうち、3名が志木高校の生徒だったのは、松崎さんの講演とあわせ、志木 の卒業生としては、涙が出そうなほど嬉しいことであった。

          草稿・演説・演説記録<小人閑居日記 2003.1.11.>

 松崎欣一さんの講演の題が「草稿・演説・演説記録-福沢先生の「演説」」と なっていたあたりを、補足しておく。 会場で配られた資料には、演説の練習 を開始した明治7年の6月7日の肥田(ひだ)昭作宅の集会での福沢の演説草 稿があった。 『福沢諭吉全集』第一巻の、『全集緒言』のうち『会議弁』につ いて述べたところにあるそれは「ぜんたい、この集会は初めから西洋風の演説 を稽古してみたいと云ふ趣意であつた。ところが何分日本の言葉は、獨りで事 を述べるに不都合で演説の體裁ができずに、これまでも當惑したことでござり ました」となっているところが、草稿原文を活版印刷したものでは「ゼンタイ、 コノ集会ハ、初メカラ、西洋風ノ、演説ヲ、稽古シテ見タヒ、ト云フ趣意デ、 アツタ、トコロガ、何分、日本ノ、言葉ハ、獨リデ、コトヲ、述ベルニ、不都 合デ、演説ノ、体裁ガ、デキズニ、コレマデモ、當惑シタ、事デ、ゴザリマシ タ」となっている。 読点が、実にたくさん打たれている。 福沢が一語一語、 確認するように話して、言いたいことを明確に伝える方法を、新しい話言葉を、 なんとか創り出したいと、努めたからだろうという。

 さらに、演説草稿と、当時田鎖綱紀によって開発された速記術による演説記 録とを比較すると(文語の原稿を口語でしゃべったものもあり)、草稿の7倍の 量になるものもあって、福沢がいかに分かりやすさを求めて、丁寧にふくらま せてしゃべったかがわかるという。

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