明治23年、スペンサーの風船乗り〔昔、書いた福沢149〕2019/11/06 06:55

    明治23年、スペンサーの風船乗り<小人閑居日記 2002.7.16.>

 明治23(1890)年10月12日の午後、横浜公園で、英人スペンサー による風船乗り(軽気球揚げ)の興業が行なわれた。 単に気球に乗って、上 昇し、下りて来るというだけでなく、上昇したところで、落下傘で飛び降りる というスリルに満ちたショーは、東京・横浜で大評判になり、わざわざ入場料 (20銭~1円)を払って、1,300人もの見物人がつめかけたという。 

 一同の前に登場した絹製の軽気球は直径28尺、周囲88尺、固唾を飲んで 見守る群集を前に、スペンサーは颯爽と乗り込み、瞬く間に大空へ上昇してい った。 見る見る小さくなって行く気球。 それを見上げる群集の頭の上に、 ヒラヒラとビラが舞ってきた…。     

        風船乗りの歌舞伎<小人閑居日記 2002.7.17.>

 スペンサーの風船乗りは明治23(1890)年10月のことで、三か月目 の翌明治24年1月には、早くも芝居になって歌舞伎座で上演されている。 外 題は「風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)」、河竹黙阿弥の台本 で、スペンサーを演じたのは尾上菊五郎。 洋楽にのって登場した菊五郎扮す るスペンサーは、黒のシャッポに鼠の洋服、軽気球の台に乗り込むと、菊五郎 お得意の仕掛けで、するすると上昇していく(「宙乗り」だろうか)。 固唾を 飲んで見守る観客に向って、軽気球からビラが撒かれる。 それを争うように 取り合う観客。 お茶の土瓶がひっくり返る音、それを叱る声…。 ビラを撒 きながら上昇していく軽気球に、客席からは大きな拍手が沸く。

 軽気球がある程度浮上すると、くるっと回ってスペンサー役は菊五郎から、 遠見の子役に交代する。 この子役は、数え7歳の尾上幸三、私が子供の頃、 実際に見たし、名優として「六代目」「六代目」と盛んに話を聞いた後の六代目 尾上菊五郎である。

       尾上菊五郎の英語スピーチ<小人閑居日記 2002.7.18.>

 子役の演ずるスペンサーは、軽気球から傘を開いて飛び降りる。 下降の途 中「大の字」などの芸を見せながら、奈落へ入る。 スペンサーは、根岸の方 へ落ち、人力車に乗って帰ってくるとの、通訳の説明があり、再び洋楽にのっ て、花道から人力車に乗った菊五郎のスペンサーが登場する。 シャッポを取 って、観客に一礼すると、 “Ladies and Gentlemen, I have been up at least three thousand feet. Looking down from that fearful height, my heart was filled with joy to see so many of my friends in this Kabukiza, who had come to witness my new act. Thank you, Ladies and Gentlemen ; with all my heart, I thank you. Kikugoro Onoye”  と、英語で演説したから、観客は驚き、大喝采となった。

 この芝居の裏事情を伝えるのが、明治24年1月14日付けの次男捨次郎宛 の福沢諭吉の手紙である。 スペンサーの風船乗りの企画には、最初から福沢 の新聞、時事新報がかんでいて、その社員で福沢の妻の姉の子、アメリカ帰り の今泉秀太郎(ひでたろう)が、通訳その他の面倒を見ていた。 空から撒い たビラは、実は時事新報の宣伝で、拾った人には時事新報一か月分進呈とあっ た。 尾上菊五郎が、風船乗りを芝居にしたいと、時事新報に問い合わせてき たので、いろいろ教えて、その際福沢の考えでほんとうの英語で演説したらと いったら、菊五郎が是非やってみたいということになった。 今泉秀太郎が英 語を書いて、慶應義塾の英語教師ミストル・マッコレーに直してもらったとい う。 菊五郎が舞台から撒いたビラも時事新報のもので、最近はコラボレーシ ョンというのだったか、タイアップ広告としても、その初期のものだろう。

         2002バルトン忌<小人閑居日記 2002.8.4.>

 「等々力短信」の読者にはお馴染みの「日本上下水道の父」W・K・バルト ンは、明治32(1899)年8月5日に亡くなった。 昨3日は「2002 バルトン忌」、青山墓地のお墓詣りは失礼して、神田の学士会館へ講演を聴きに 行った。 「学士会館」は初めてだ。 最近はもっぱらノーネクタイなのだが、 「学士会館」というので、馬鹿にされちゃあいけないと、背広を着て行く(私 学コンプレックスだ、ははは)。 すると、若い講師の先生は、Tシャツだった。  昨年『浅草十二階・塔の眺めと<近代>のまなざし』(青土社)を出した滋賀県 立大学講師の細馬宏通(ほそまひろみち)さん。 漱石は1867年生れだか ら、漱石の年齢は明治の年号に一致する。 千円札・夏目漱石の写真は、漱石 45年=明治45年の明治天皇ご大葬の日に撮影されたもの。 お札をごらん になると、45歳の漱石はいやに老けているが、これは偽造防止にシワ・ヒゲ その他を細かく描いた(彫った)ため。 もとの写真は、もっとノーブルで風 雅な顔立ち、小川一真の撮影。 当時、帝室写真師にまでなっていた小川一真 の写真術を、そもそも格段に進歩させたのがバルトンだった。 明治20(1 887)年、バルトン来日の年の皆既日食撮影隊での日光の出会いから、明治 23年開業バルトン設計浅草十二階・凌雲閣での百美人投票(明治24年)の 写真撮影まで、小川とバルトンの写真コネクションは、いろいろある。 凌雲 閣の日本初のエレベーターの故障続きなどの顛末や、パソコンからの投映画面 で子細に検討した凌雲閣の錦絵の話などが面白かった。 

 その錦絵には、落下傘で下りて来る尾上菊五郎のスペンサーが描かれていた。  前に書いた「風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)」の、「高閣」 は凌雲閣、福沢関係からの「スペンサーの風船乗り」の資料を持参した私は、 コピーを細馬宏通さんに差し上げ、少し話をしてきた。

「福沢諭吉と朝鮮」予告編〔昔、書いた福沢150〕2019/11/07 06:51

       「福沢諭吉と朝鮮」予告編<小人閑居日記 2002.8.1.>

 韓国で「嫌いな日本人」というアンケートを取ると、まず豊臣秀吉、伊藤博 文、そして福沢諭吉だという話を聞いたことがある。 福沢のことを少しかじ れば、福沢が朝鮮に対して、いろいろと努力し、貢献をしたことがわかる。 そ れなのに、韓国での、この評価はなぜなのだろうか。 そこで福沢の汚名を晴 らすため、「福沢諭吉と朝鮮」の問題を少し調べてみようかと考えている。 そ れには、まず日本と朝鮮の近代史を、ある程度知らなければ話にならない。 あ らためて考えてみると、ほとんど何も知らないことに気づくのだ。

「多事争論」〔昔、書いた福沢151〕2019/11/08 07:17

         「多事争論」<小人閑居日記 2002.8.10.>

 テレビというメディアによる世論形成のことを気にかけているので、筑紫哲 也さんの『ニュースキャスター』(集英社新書)を読んでみた。 「テレビは「小 泉首相」を作ったか」という章もある。 森内閣の不人気も、小泉内閣の異常 人気も、世の中は全てテレビの影響下に動いているとする見方に対し、筑紫さ んは、もっと実態に即した論議が要るテーマだといい、小泉・田中真紀子人気 は二人が「世間」に近い「文化」(たとえば政治以外に楽しむことをいっぱい持 っている)と「ことば」(政界用語ではない)によるものだという。

 筑紫さんは自身を、絶対の真理、絶対の正義など、この世に滅多にないと思 っている「多元論者」だという。 出自が政治部記者だから、取材相手との信 頼関係を築いた上で収穫を得るスタイルだし、雑誌編集者が長かったから、自 分を「無」にし「器」を提供して多彩な人物に登場してもらう習性がある。 鋭 くインタビューする久米宏さんを「北風型」、自分を「太陽型」という。

 筑紫さんが80秒を一人でしゃべるテレビコラム「多事争論」というコーナ ーがある。 「多事争論」は『文明論之概略』にある福沢諭吉の造語で、筑紫 さんは「なるだけ多くのことをなるだけ論じあったほうがいい」という意味だ が、それができないできたのが今にいたる日本近代だと思っている。 「自由 の気風」が高い価値を持たない社会で、付和雷同の「単一の説」がどれだけ国 を誤らせ、人々に厄災をもたらしてきたことか…、という。        

 冒頭に書いた私の心配を、当事者である筑紫さんもしているのであった。  「多事争論」を、じっくり視聴するとしよう。

     日田の「自由の森大学」のことなど<小人閑居日記 2002.8.11.>

 筑紫哲也さんの『ニュースキャスター』に、中津出身の福沢諭吉の「多事争 論」が出てくるのと関係があるかどうかわからないが、筑紫さんは大分県日田 市の出身だという。 そして日田市で「自由の森大学」という市民大学の学長 をやっている。 幕末の日田で、漢学者の広瀬淡窓(たんそう)が咸宜園(か んぎえん)というユニークな私塾を興した。 「咸宜」は「みなよろし」とい う意味で、身分、藩の別などきびしかった時代に、学歴も問わず入学できる代 りに、入ってからは実力主義、自律自治の勉学を課した。 「自由の森大学」 は、「平成の咸宜園」を目ざしているという。

 敗戦の年、筑紫さんは10歳の軍国少年だった。 大人たちは昨日まで言っ ていたことと全く反対のことを言って恥じない変わり身の早い人たちだった。  だから自分たちの世代は、年長者への敬意をひどく欠いた世代だという。 疑 うことの大切さ、知の大切さを思い知り、大人たちに向かって、総体としての 世代責任、結果責任を「恨」のまなざしをこめて問うてきたかつての少年は、 今それを問われる立場にいる、と筑紫さんはいう。

『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』〔昔、書いた福沢152〕2019/11/09 06:59

       川路聖謨と広瀬淡窓<小人閑居日記 2002.8.12.>

 積んどく本の吉村昭著『落日の宴 勘定奉行川路聖謨(としあきら)』(講談 社)を、たまたまぱらぱらやっていたら、川路聖謨が日田の生れであった。 日 田は代官所のあった幕府の天領であった期間が長く、それも西国筋郡代の在陣 地として九州幕領支配の一大中心地だった。 4歳で江戸へ出て、父は徒士組、 養父も小普請組だったのに、川路聖謨は異例の出世をして勘定奉行にまで昇る。 

 嘉永6(1853)年ペリーの黒船についで、ロシアの使節プチャーチンが 長崎に来て開国を要求した時、川路は筒井政憲とともに交渉のため長崎に派遣 される。 『落日の宴』によれば、そのぶらかし交渉が一応成功しての帰路、 佐賀の田代という所に、日田から叔父や代官、神主、庄屋など沢山の人がきて いて出迎える。 勘定奉行というのは、たいへんな格だということがわかる。

 その日田からの一行のなかに、広瀬淡窓もいた。 川路は大儒者がきたこと に恐縮し、丁重に遇した。 淡窓にはみずから縮緬の羽織を着せかけ、しばら くの間、話し合ったという。

 数え21歳の福沢諭吉が、中津から蘭学修業のため長崎へ向かうのは、その 翌月のことである。

          幕末…二つの動乱<小人閑居日記 2002.8.13.>

 吉村昭さんの『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』であるが、ロシアの使節プチ ャーチンとの長崎での交渉経過のあたりまでは、ちんたらしていてなかなか進 まなかったのが、ペリーの脅しに屈した江戸幕府が日米条約を先に結んだのを 知ったプチャーチンが、再びディアナ号で大坂沖に現れ、下田で交渉に入った あたりから、俄然面白くなる。

 以前、石橋克彦さんの岩波新書『大地動乱の時代』で読んだように、「安政東 海地震」の大津波が、交渉地下田を襲うからである。 石橋さんは、黒船と大 地震を「幕末…二つの動乱」と書いていた。

        プチャーチンと川路聖謨<小人閑居日記 2002.8.14.>

 「安政東海地震」の大津波が日露の交渉地下田を襲って、下田の町は家数8 75軒の内841軒が流失・皆潰、30軒が半潰・水入、無事の家はたった4 軒という壊滅的な被害を受ける。 ディアナ号も、龍骨が折れるなどの損傷を 受け浸水、ほとんど航行不能となる。 修理のため戸田(へだ)村へ回航中、 天候が急変して沈没し、戸田で代船となる木造スクーナーを建造することにな った。 学生時代、戸田でクラブの海水浴合宿をした。 沼津から船で行った が、途中、海が荒れ、怖い思いをしたことがある。

 地震後1か月の中断の後、日露の交渉は再開され、陽暦1855年2月7日、 日露和親条約が締結された。 幾多の困難を乗り越えて、ここまでこぎつけた プチャーチンを、川路聖謨は「真の豪傑」と賞賛し、プチャーチンも川路聖謨 の聡明さと鋭い感性に感嘆し、類い稀な人物だと激賞している。 外交交渉で は手ごわい敵同士ではあったけれど、協力して一仕事なしとげたパートナーへ の敬意と親愛の情が感じられる。 この条約で、千島については、エトロフ島 以南は日本領、ウルップ島以北はロシア領と明記されている。 それが今日の わが国の主張の根拠となっているため、2月7日が「北方領土の日」とされて いる。

         六十過ぎての健康法<小人閑居日記 2002.8.15.>

 老中堀田正睦とともに慶喜擁立に動いていた川路聖謨は、井伊直弼の大老就 任によって左遷され、安政の大獄で御役御免隠居蟄居を命じられた。 井伊暗 殺後、生麦事件が起こると、外交折衝の経験を買われて、再び外国奉行にひっ ぱり出される。 だが、まもなく孫の太郎が結婚し川路家の当主としての体裁 も出来たので、老齢を理由に高禄を辞退し、御役御免となる。 65歳、歯は 抜け耳は遠く、白くなった髪はうすれて丁髷は細くなっていたが、早朝の槍の しごき、太刀の素振り、半ば走るように歩くことを日課にし、召されればいつ でも御奉公ができるように心掛けていた。 厳冬2月のある朝、槍を二百回ほ どしごいたところで、倒れて半身不随になる。

 福沢諭吉の健康法も、毎日の米搗き(玄米を精製して白米にすること)と居 合抜き。 どちらもかなり激しい運動だ。 米搗きの臼を搗き潰して、64歳 の時、五つ目の米臼を新調している。 「居合数抜記録」というのが『全集』 20巻395-396頁にある。 明治26年11月17日 居合数抜 千本、 午前9時15分より12時まで640本、午後2時より3時半まで360本。  刀は、鍔元より長さ2尺4寸9分(75.5センチ)目方310匁(1162 グラム)。 野球のバットより重い日本刀を、刃鳴りのするほどの速さで力いっ ぱい振り回して斬り込むのだから大変だ。 土屋雅春さんは『医者の見た福沢 諭吉』で、これは今でいうジョギングのしすぎのようなもので、晩年の大患(脳 卒中)の遠因の一つになったといっている。 川路も福沢も、体力・気力には 常人をはるかに超えるものがあった(だから大きな仕事をしたともいえる)が、 齢を取ったら、運動はほどほどにしたほうがよいようだ。

春風亭㐂いちの「熊の皮」2019/11/10 07:45

 〔昔、書いた福沢〕シリーズをちょっとお休みして、ひさしぶりに落語であ る。 10月25日は、第616回の落語研究会だった。

   「熊の皮」     春風亭 㐂いち

   「田能久」     入船亭 扇辰

   「蒟蒻問答」    三遊亭 歌武蔵

           仲入

   「天狗裁き」    桂 三木助

   「たちきり」    入船亭 扇遊

 㐂いちは一之輔の弟子、5月に二ッ目になった、この仕事に5年、慣れて、 緊張しない、と言う。 でも自信、責任感は、しっかり、まるでない。 お客 の自己責任、真剣にやる仕事ではないと学んで5年、それをご披露する。

 夫婦は女性が強い方がうまくいく、かかあ天下。 今、帰った、みんな売れ た、菜っ葉一枚ない。 おかみさん達が待っていてくれるんだ。 私も、お前 さんを待っていた。 水を汲んで来て…、桶をもう一つ、二つ持って。 タラ イに水あけて。 ついでに、洗濯物、洗って、絞って、干すんだよ。 きつく 絞って、パンパンと叩いて。 ついでに、お米を研いで。 研ぎ汁は、捨てな いで、食器を洗うんだよ、キュッ、キュッと。 腹ペコで帰って来たんだ、飯 を食わしてくれ。 遠慮なく、上がんな、出てるだろ、おこわ。 赤飯か、旨 そうだ。 角の先生から頂いたんだ。 一人でお食べ、私はお茶漬で済ませた から。 クチュ、クチュ、旨えな。 お茶、お茶。

 食べたついでに、おこわのお礼に行ってもらいたい。 俺はそういうのは苦 手だ。 一家の主だろう。 実質、お前が主だ。 食べたのは、誰? 行くよ。

 お礼の言い様がある、裏から行くんだ、「先生、ご在宿ですか」と訊く。 先 生にお目にかかったら、「さて、承りますれば、お屋敷からお祝いの到来物があ りましたそうで、お門多いところを、私共にお赤飯をありがとうございます」 と言うんだ。 駄目だよ、お前は亭主の実力がわかってない。 口移しに教え るから。 えっ、まだ昼間だぞ。 真似して、言うことだよ。 「サテ、ウケ ウケウケタマタマワスレバ……ウエーン」 泣くんじゃない、怒るよ。 「何 でも、お屋敷様から、ご到来物だそうで」。 それから、お終いに、私からよろ しくって、言うの忘れないで。 おかしいだろう、行った俺が「私からよろし く」ってのは? 女房オ!

 あんなこと言っているけど、あいつは俺が好きなんだ、オッと、通り過ぎた、 裏からじゃなく、表から行っちゃおう。 先生は、ご退屈ですか。 先生、町 内の甚兵衛さんが見えました。 先生に言いてえことがありまして、先生は、 ご退屈ですか。 ご在宿かって言いたいんだろう、この通り、お目にかかって いるがね。 「サテ、ウケウケウケタマタマ、テケテケタカスカ……」 どこ か、壊れましたか、ゆっくり。 「ウケウケタマタマ……、ここ抜かします、 お屋敷でお弔いがありましたそうで、お門多いところを、お石塔をありがとう ございます」 甚兵衛さん、不吉なことばかり言うね、こう言いたいんでしょ。  「さて、承りますれば、お屋敷からお祝いの到来物がありましたそうで、お門 多いところを、私共にお赤飯をありがとうございます」 先生、聞いていたん ですか。 角のお屋敷のお嬢さんが長の患いでね、いろんな医者に診てもらっ たが芳しくない、私が診たら全快したんだ。

 みんな、先生の所為じゃないと思ってますよ、大丈夫、気を落さないで。 え っ、先生が治した? 珍しいことがあるもんで。 お礼に熊の毛皮を頂いた。 毛 深いんですね、平べったい。 毛皮だからな。 もっこりしているのは。 頭 (かしら)だ。 横丁の鳶頭(かしら)。 熊のだ。 何に使うもんです。 敷 物だ。 尻に敷くもんですか、アッ、女房がよろしく言ってました。