『福澤諭吉書簡集』編集の苦楽談・数学で和歌俳句をつくる[昔、書いた福沢167]2019/12/10 07:08

     『福澤諭吉書簡集』編集の苦楽談<小人閑居日記 2003.3.16.>

 15日、福沢諭吉協会の総会と土曜セミナーが日本橋室町の三井本館であっ た。 セミナーの講師は慶應義塾大学文学部教授で福沢研究センター所長の坂 井達朗さん、「『福澤諭吉書簡集』の編集を終えて」という話であった。 2年 半の準備期間を経て、福沢諭吉没後100年を記念して2001年1月23日 に刊行が開始され、その第一巻が同年2月3日の墓前祭に捧げられたこの新書 簡集は、さらに2年をかけて当初予定の七冊よりも多い全九巻で、今年1月2 8日完結した。 『福澤諭吉全集』刊行以後、新たに発見された480通を加 えて、収録総数は2564通になった。 編集委員は飯田泰三、川崎勝、小室 正紀、坂井達朗、寺崎修、西川俊作、西沢直子、松崎欣一の8氏で、委員会は 多くの苦悩と試行錯誤の中、4年半にわたって毎月1回ずつ、4回の合宿を含 めて50回以上の会合を重ねてきたという。 その過程を時折、外野から、垣 間見る機会のあった者として、そのご苦労を多としたい。

 編集の基本方針として、矛盾する二つの方向を追った。 一つは、福沢研究 の、そして近代日本研究の、基本史料集として研究者の使用に耐えるものを編 集すること。 もう一つは、一般の読者のために出来るだけ読みやすくするこ とだった。 原本の持つ雰囲気を出来るだけ再現することが試みられ、たとえ ば福沢がカタカナをある種の思いを入れて使っているので、カタカナや主な変 体仮名をそのまま残した。 それぞれの書簡に要約をつけ、直後注を充実した ほか、最新の福沢研究の成果を取り入れて、巻末に【ひと】【こと】という補注 をつけ、各巻に時代背景などの丁寧な解題を載せた。

 個人的なことをいえば、この新書簡集に新発見の一通の手紙(第四巻九九二 番大谷光尊宛)を加えるお手伝いが出来たのが嬉しかった。(「等々力短信」7 55号~『五の日の手紙4』152頁~)(奥沢の福沢〔昔、書いた福沢74〕<小人閑居日記 2019.7.15.>)

       数学で和歌・俳句をつくる<小人閑居日記 2003.3.17.>

 坂井達朗さんは「『福澤諭吉書簡集』の編集を終えて」の「書簡集を刊行する 意味」という所で、新発見の書簡から面白い事がわかってきた話をした。 『書 簡集』第九巻所収、安永義章宛の明治16年12月26日付二五一八番書簡は、 安永が提案した和歌に関する時事新報社説を執筆中であり、年が明けてから掲 載する予定であるというもので、明治17年1月7日付二五一九番書簡は、そ の社説原稿のチェックのための来訪を求めている。 安永義章は、安政2(1 855)年佐賀生れ、明治13年工科大学卒業、工部省に入り、大阪製鉄所技 師を経て陸軍省から欧米留学、帰国後大阪高等工業学校長などを務め、土曜セ ミナーにご出席の曾孫によればダイハツの創立者の一人だそうだ。

 問題の時事新報社説は「数学ヲ以テ和歌ヲ製造ス可シ」(明治17年1月1 1・12日)で、31文字の和歌の総数は数学の(今日の)順列組合せの考え 方で、いろは47文字の31乗、 6,839,645,551,362,303,414,388,150,265,489,536,773,690,760,229,559,503首 (52桁の数字)になる。 だから47枚の歯を持つ歯車を31個組み合せれ ば、和歌を製造する器械を造ることも可能で、製造可能なあらゆる和歌に一連 番号を付けることも簡単にできる。 俳句・川柳や都々逸(どどいつ)の総数 も計算してあって、それぞれ 47の17乗で29桁の数、47の27乗で46桁の数になる。 俳句の「い いい…」17字重なりを1番とする一連番号でいうと、芭蕉の「ふるいけやか はつとひこむみつのをと」は、17,697,009,146,269,768,286,022,336,542番の 俳句になる。「詩人歌人ヲシテ苦吟ノ労ヲ省キ其精神ヲ他事ニ用ルノ閑ヲ得セシ ムル」「文明ノ学術益洪大ナルヲ知ル可キナリ」というのである。

      時事新報社説の思わぬ影響?<小人閑居日記 2003.3.18.>

 坂井達朗さんは、福沢がこの安永義章の議論を時事新報社説に取り上げたの は、和歌などの創作といった神秘的なものと考えられていたものにも、数学の ような合理的精神が適用できるといった趣旨なのだろうが、その社説が福沢の 予期しなかった影響を及ぼしたふしがあるという。 当時の歌壇の状況はとい えば、香川景樹の流れを汲む桂園(けいえん)派と賀茂真淵を祖とする国学派 の二派があり、宮中御歌所を占める桂園派が有力だったが、それは古今集を宗 とするもので、沈滞していた。 これに対して、新体詩の運動が起こり、明治 20年代以降、和歌・俳句の革新運動が起こることになる。

 正岡子規の『獺祭書屋俳話』(明治28年)「俳句の前途」という文章に、数 学者が「日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎざれば之を錯列 法(パーミテーションとふりがな、順列コンビネーションの誤り、子規は数学 が苦手だったそうだ)に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり」といっ ており「和歌は明治已前に於て略ぼ盡きたらんかと思惟するなり」と書いてい る。 子規の後輩で後に大蔵大臣などを務めた勝田主計(かずえ)は「子規を 憶う」という回想の中に、明治20年前後の学生時代、子規が暑中休暇で帰省 し、俳句談をやっていたが、当時は序次配合と訳していたコンビネーション、 パーミテーションの何たるかを無論心得ていた子規が、「序次配合の理屈から俳 句の数は自ら一定したもので、古今暗合の多いのは当然であるなどと論じ立て、 月並の発句詠みなどを煙に巻いたものであった」と語っているという。 坂井 さんは、時事新報に「数学ヲ以テ和歌ヲ製造ス可シ」社説が出た明治17年1 月11・12日というと、正岡子規は明治16年6月に上京して予備校にいた 時期なので、それを読んでいた可能性は十分あるというのだ。

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