水の江戸・水の東京、池田弥三郎さん[昔、書いた福沢169]2019/12/12 06:55

      等々力短信 第925号 2003(平成15)年3月25日

                水の江戸・水の東京

 テレビ50年のNHKアーカイブスから選りすぐった、「思い出の日曜美術 館」の初回(3月17日)は、池田弥三郎さんの「私と広重」だった。 亡く なる前年の、昭和56(1981)年に放送されたものだそうだ。 斜めの雨 が降って、対岸も斜めに霞み、筏がただ一流大川(隅田川)を行く、新大橋に は足早な六人、ゴッホも油絵にした「大はしあたけの夕立」。 弥三郎さんは、 江戸の水、江戸の橋、江戸の雨、どれも広重が発見し、広重が取り上げたこと で、アッそうか、と目を開かれたものだと言う。 斜めの雨については、京都 へ行って、京都の雨がまっすぐに降ることに気がついた。 関東、関東平野に は、風があるのだ、と言う。 「永代橋佃しま」は夜景、弥三郎さんのひいお じいさんが永代橋を渡って、川向こうの悪所、賭場へ通っていた。 すってん てんになって、もうこんなことは止そうと改心し、永代橋の上からサイコロを 大川へ捨てて、てんぷら屋を始めたというのが、銀座天金創業の伝説なのだそ うである。

 広重『名所江戸百景』(平成3年、東海銀行国際財団刊行本が便利)を、あら ためて見てみると、江戸の町には水景が実に多い。 それどころか、水のない 絵は、ほんの数えるほどしかないのである。 家康が秀吉の悪知恵で関東六か 国の領主にされ、ひなびた一漁村だった江戸に入った天正18(1590)年、 まず手をつけたのが小名木川の開削だった。 現在の江東区の中央を東西一文 字に貫いて隅田川と旧中川を結ぶこの運河は、行徳の塩を江戸城に運ぶために 開かれ、東北・関東各地と江戸を結ぶ動脈になっていく。 神田山(駿河台の 続きが、今の岩本町の方まであった)を切り崩して、新たに神田川を掘り、そ の土で江戸城前面の日比谷入江を埋め立て、浜町以南、南新橋までの土地を造 成した。 漱石の『硝子戸の中』、幕末から明治の初年、裕福な名主であった夏 目家の姉達が、真夜中に牛込の揚場から、あつらえて置いた屋根船に乗り、神 田川をお茶の水から柳橋へ下り、大川に出て遡り、浅草猿若町の芝居見物に行 く。 同じ道を船で帰ると、家に着くのは十二時頃、つまり夜半から夜半まで かかったという。

 弥三郎さんの話に出た永井荷風の「日和下駄」(岩波文庫『荷風随筆集』上) と、幸田露伴の「水の東京」(岩波文庫『一国の首都』)を読む。 空襲の時、 先日ボラが湧いたドブ川立会川で命を拾い、花火見物の船が渋滞で神田川を出 られず、江戸川で父とハゼ釣や投網をしたことなど、自分史「水の東京」の断 片が浮んで消えた。

         顰(ひそみ)に倣(なら)う<小人閑居日記 2003.3.29.>

 「水の江戸・水の東京」<等々力短信 第925号>に、池田弥三郎さんのご 長男光(ひかる)さんから葉書をいただいた。 光さんは、短信の読者である。  私が高校3年生の時、大阪で開催された福沢諭吉生誕125年の記念会に、志 木の高校から遣ってもらった時、光さんが幼稚舎の代表(6年生)で来ていた というご縁だ。 お名前は、折口信夫さんの命名と聞いた。

 短信をコピーしてお母様と、二人の弟さんにも渡して下さったそうで、番組 への反響は非常に大きく、お母様は毎日電話の応対に忙しい由。 光さんも、 ひさしぶりにお父上の著書『広重の東京』を取り出して、絵など眺めたりして いるとのことだった。 ひいおじいさんの銀座天金創業の伝説は、光さんも直 接お父上から聞いていて、弥三郎さんご本人も「その顰にならったのでしょう。  簿記の本などを数寄屋橋から投げ捨てて、経済学部から国文科に転向したのだ そうです」と、あった。

 さっそく辞書を引いて「顰(ひそみ)に倣(なら)う」を復習したのも、国 文科池田弥三郎教授のご縁ということになる。

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