松木弘安(寺島宗則)と五代才助[昔、書いた福沢172]2019/12/16 07:05

   松木弘安(寺島宗則)と五代才助の薩英戦争<小人閑居日記 2003.5.1.>

 6月27日に鹿児島湾に着いたイギリス艦隊は、七艦も連ねて威圧すれば、 薩摩藩は簡単に賠償金の支払に応じると思っていたのだろう。 それが7月1 日になっても、らちがあかない。 2日の夜明け前、脇元浦に隠れていた薩摩 藩の蒸気船「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」を急襲して、拿捕してしまう。 こ の三隻の価額は、賠償金を上回るから、それを担保に交渉しようと考えていた のだが、薩摩藩は拿捕を知って、台場からの砲撃を開始した。 旗艦「ユーリ アラス号」は台場からの射程距離にいながら、砲戦の準備をしておらず、沈黙 したままだった。 幕府からの賠償金44万ドルのドル箱を弾薬庫の前から片 付けて、弾薬を運び出すまで1時間近くもかかってしまった。 戦闘状態に入 って、足手まといになる拿捕した三隻を、イギリスは焼却してしまう。

 この「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」の船頭(ふながしら)が、松木弘安(寺 島陶蔵、宗則)と五代才助(友厚)だった。 乗組員は捕えられて桜島に解放 されたが、松木と五代は「ユーリアラス号」に移され、行方不明となる。 英 語が出来て、西洋事情に明るい二人は、身の安全のため進んでイギリス艦に留 まり、そのまま横浜に帰ることになる。 艦隊には通訳兼書記役として武州羽 生村出身の商人清水卯三郎が乗っていたが、清水は蘭学を川本幸民に学び、松 木は兄弟子にあたっていた。 横浜で釈放されたものの、薩摩藩士はもとより 幕府からも、追われる身になった二人を、清水卯三郎がかくまう。

 松木弘安は、これより先、遣欧使節の通訳として福沢諭吉と一緒にヨーロッ パへ行った福沢の友人だった。 清水卯三郎も、蘭学仲間だから、福沢は松木 と清水から薩英戦争の話を聞き、かなりくわしく『福翁自伝』に書いている。  だがこの一章は松木と五代が二隻の火薬庫に導火(みちび)をつけておいたと あるなど、誤りが多い。 福沢の体験でなく、聞き書きによるものだからだろ うといわれている。

       薩摩藩の海外留学生派遣<小人閑居日記 2003.5.2.>

 五代才助(友厚)は、いっしょに潜伏していて時期尚早と反対する松木と別 れ、元治元(1864)年正月、川路要蔵と変名して長崎に潜入し、英商トー マス・グラバー(グラヴァー)と知り合う。 薩英戦争の敗北と捕虜となった 経験は、五代を急進的開国論者にし、外国貿易による富国強兵のために海外留 学生派遣の必要を痛感させる。 同年5月頃、「五代才助上申書」を藩に提出、 罪を詫びて、上海貿易と海外留学生派遣を建策した。 そのころには藩論も開 国富国強兵に傾いていた。 6月、長崎にいるまま帰参を許された五代と、藩 唯一の渡欧経験者松木弘安を視察随員として、元治2(1865)年正月15 名の留学生派遣の藩命が下る。

 留学生一行は密航のため、それぞれ変名を使い、グラバー商会のライル・ホ ームが同行、4月17日グラバー商会所有の蒸気船オーストラリア号で串木野 から出航する。 その中には、のちに外交官の嚆矢となる鮫島尚信、教育制度 の改革と近代化につくした森有礼、海軍中将松村淳蔵、カリフォルニアの「葡 萄王」となる長沢鼎(磯永彦輔)、フランス語の達人外交官中村博愛などがいた。 (犬塚孝明著『薩摩藩英国留学生』中公新書がくわしい)