神奈川宿の台地、旧街道沿い、生麦[昔、書いた福沢174]2019/12/18 06:12

       神奈川宿の台地を歩く<小人閑居日記 2003.5.11.>

 10日は「新・横濱歴史散歩」の現地散策で「神奈川宿」周辺を歩いた。 京 浜急行で横浜から一つ品川寄りの神奈川駅で集合。 初めて降りる駅だが、生 れ育った中延方面から第二京浜国道が青木橋の所で左折して横浜駅前(東口、 昔は西口なんてなくて裏口だった)へ回り込む、その青木橋のたもと、見たこ とのある場所だった。

 青木橋を渡って山側へ、本覚寺という立派なお寺が見える権現山に続く台地 を登って行く。 これが旧東海道、広重の浮世絵にある海沿いの坂道で、つま りここから横浜駅側は海だったことになる。 「文久三年」と看板のある料亭 など当時の「台町の茶屋」の前を通って「神奈川台の関門跡」から、右に急坂 を登る。 上台町公園、かえもん公園、ここには高島嘉右衛門の屋敷があった 由、高島易断の碑、望欣台の碑、弁玉の歌碑などを見る。 高島嘉右衛門は常 陸から少年の時江戸に出て材木商となり、漸次産を成した横浜の実業家で、石 川潔さんによればご禁制の(例の金銀交換比率差利用の)金取引のかどで小伝 馬町に入牢中に牢屋にあった本で勉強して高島易断を創始、鉄道敷設にあたっ ては海中に鉄道線路用土手を只で築く一方、土手までの土地を埋め立てればも らえる契約をして、現在の高島町にその名を残す。 望欣台とは台地にある自 分の屋敷から埋め立ての進行状況を毎日眺めて嬉しがっていた所の意。 洋学 校高島学校、ガス事業などでも貢献し、福沢諭吉を高島学校へ招こうとして、 息子たちの留学費用を負担するからという条件を出し、独立自尊の人に断わら れる(『福翁自伝』に出てくる「横浜の富豪」)。

 幕末維新の風物を和歌に詠んだ弁玉という僧が住職をしていた三宝寺(今は 神奈川駅方面から見ると空中寺院となっている、一見の価値あり)の前を通っ て、生麦事件の時に怪我人がかつぎ込まれ、ヘボンが治療した本覚寺へ。 ア メリカ領事館だったが、事件当時神奈川に領事館のあったのはアメリカだけで、 ほかの国はみな横浜へ移っていたという話だった。 アメリカは最初に来て、 港から一番目立つこの寺に領事館を設けたが、山門から何から白ペンキで塗り つぶしたとか(戦後の進駐軍も、そうだった)で、激しかったという横浜空襲 をたまたま逃れた当時の山門に、寺の人が見ると白ペンキに見えるというシミ が、今に伝えられている。 その山門を出た所に、岩瀬忠震の碑があるのがう れしかった。 横浜開港の功績を、掃部(かもん)山公園に銅像が建っている 井伊掃部守直弼に帰するのは誤りで、海防掛目付岩瀬忠震の存在を忘れてはな らないからだ。

       神奈川宿本陣近辺の旧街道沿い<小人閑居日記 2003.5.12.>

 そうそう本覚寺に、塗装業組合の殉職者記念碑だかがあったが、白ペンキの 縁だそうだ。 横浜はペンキ塗りの、日本発祥の地であった。 本覚寺から神 奈川駅前に戻って、宮前商店街の旧東海道に入る。 古い地図の甚行寺に「仏 ミニストル(公使館)」とあったが、横浜市の表示板では英士卒が滞在とだけ書 いてあった。 宮前の名の由来である洲崎大神社へ。 神奈川宿の神社という ことで、かつては盛大な祭礼が行なわれ、今もほとんど店のない商店街の貧弱 さの割に、祭は賑わうという。 神社の鳥居の前が、生麦事件の話にもよく出 て来る宮ノ河岸渡船場で、ここから先は海になっていたわけだ。 河童伝説の ある瀧の川にかかる瀧之橋の手前を川沿いに左折してすぐの道を左に入ったと ころが、シモンズやヘボンのいた宗興寺で、ヘボンの碑があった。 プレート の記述は虫下し「セメン円」シモンズ由来説だった。 同寺横の神奈川の大井 戸を見て裏手に回り、イギリス領事館のあった浄瀧寺を奥に見て、橋を渡って 京浜急行線の先にフランス領事館だった浦島太郎ゆかりの慶運寺、少し戻って ふたたび旧東海道に入った成仏寺にはヘボンやブラウンが滞在していた。 こ のへんに寺の多いのはなぜかと石川潔さんに訊くと、幕府はどこでも宿場の近 くには寺を集めた(品川も)もので、攻められても墓を倒せばすぐ防御(バリ ケード)になるというような話だった。 神奈川地区センターという区の施設 の前に、かつての高札場が復元されている。 もともとは、本陣に近い瀧之橋 のたもとのあたりにあったらしい。 熊野神社、金蔵院を通って京急仲木戸の 駅から生麦まで電車に乗る。

     浅海武夫さんの生麦事件参考館など<小人閑居日記 2003.5.13.>

 生麦駅で降りて、第一京浜国道近くの生麦事件参考館へ行く。 生麦の酒屋 さんだという(現在は息子さんに譲って隠居)浅海武夫さんが、自宅前の普通 なら駐車場にするような所に自費で小さな建物を建て、蒐集した事件関係の資 料を展示公開している。 吉村昭さんが『生麦事件』のあとがきに、浅海武夫 さんは研究者が皆無だと思っていた生麦事件の地道な研究者で、この参考館で 見た当時の生麦村の家並図が、小説を書く上でたいへん役に立ったと書いてい る。 その家並図が展示してあるのも見たが、東海道の両側に並ぶ家々の住人 の名前、職業、家のグレード(上中下)、広さと座敷のあるなし(下の家には座 敷がない)まで記されていた。 吉村さんは村から神奈川奉行所に提出された 事件に関する報告書と、この家並図をくらべて、事件の発生場所を確実につか むことが出来たという。 また、浅海さんの斡旋で入手した生麦村の庄屋の日 記から、簡潔に記された事件の概要、毎日の天候その他を知り、小説を書き進 める大きな力になったそうだ。 浅海武夫さんには、講演にお出かけとかで、 残念ながらお会いできなかった。

 生麦事件の記念碑を見て、すぐそばのキリンビール「キリン横浜ビアビレッ ジ」へ行く。 きれいに整備された工場を見学して、出来たてのビールが試飲 できる施設だ。 土曜日なのでラインは稼働していなかったが、半日歩いての ビールは最高においしそう、下戸にはソフトドリンクもあった。 ともかく、 こんな機会がなければ、けして行かない場所ばかり巡ることが出来、神奈川宿 の土地勘を得た楽しい歴史散歩だった。