ペリー来航150年の久里浜浦賀へ行く・中島三郎助[昔、書いた福沢176]2019/12/20 06:58

   ペリー来航150年の久里浜・浦賀へ行く<小人閑居日記 2003.5.24.>

 きょうは福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で、久里浜・浦賀へ行って来た。 今 年はペリー来航150年目に当り、福沢諭吉らを乗せた咸臨丸がアメリカに向 けて出航したのも浦賀だったからである。 まず、ペリーの上陸地である久里 浜海岸のペリー公園へ行く。 以前行った時は、巨大な「ペリー上陸記念碑」 だけだったが、昭和62(1987)年に作られたという小さな「ペリー記念 館」が建っていた。

 この記念碑については、新・横浜歴史散歩の講義で石川潔さんから面白い話 を聞いていた。 太平洋戦争が始まった時、地元の人達は、アメリカの上陸記 念碑というのはまずいだろうということで、引き倒したそうだ。 しかし、あ まりに巨大(4メートル近い高さ)なので、壊すことも出来ず、放っておいた。  敗戦後、進駐軍が来るということになって、今度は倒したままではまずい、戦 犯にされては大変だということになって、またみんなで立てたという。 壊さ なくて、よかったと言い合って、胸をなでおろしたそうだ。

   浦賀、咸臨丸出航の碑と中島三郎助<小人閑居日記 2003.5.25.>

 つぎに浦賀へ行き、浦賀港を見下ろす愛宕山公園に登って、「咸臨丸出航の碑」 (昭和35年(1960)年建碑、裏に咸臨丸乗組員全員の名前が刻んである)、 『福翁自伝』に「いま浦賀の公園に立ってある」と出て来る中島三郎助の招魂 碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑を見る。 浦賀港は細長い水路が小山と小山の間 に入り込んだような地形で、天然の良港だったのだろう、愛宕山の登り口付近 には対岸への渡し船「浦賀の渡し」、運賃150円があった。 湾奥までぐるっ と回るよりも、近いのは明らかだ。 その湾のぐるりに、小栗上野介ゆかりの 浦賀ドック(造船所)があるのだが、閉鎖状態のようで、ひっそりとして寂し い感じが漂っていた。

 中島三郎助の遺品などが展示してある「浦賀文化センター」を見学。 中島 三郎助は浦賀奉行所の与力で、ペリーの黒船が最初に来た時、オランダ語通詞 堀達之助を伴い小舟で旗鑑サスケハナに近づき、折衝を開始した人で、オラン ダ式海軍砲術を研究し、のちに軍艦頭取に進む。 戊辰戦争では榎本武揚に従 って函館まで行き、五稜郭の戦いで恒太郎、房次郎の二子とともに奮戦して死 んだ。 中島一家戦死の翌々日、榎本武揚は官軍に降参し、戦争が終わる。 幕 臣で岩倉使節団の一員だった田辺太一(やすかず)撰文の、中島三郎助の招魂 碑を見ていたら、隣にいた旧幕臣の子孫Gさんが、「幕臣はいろいろと苦労した ようですよ。 うちは茶坊主の家だったから、戦争に行かなくてもよかったけ れど…」と、言った。

        江戸と浦賀の距離<小人閑居日記 2003.5.26.>

 久里浜・浦賀へは、東京駅の丸ビル前で集合して、観光バスで行った。 霞 が関から首都高速に乗り、レインボー・ブリッジを渡り、お台場から、羽田を 通って、ベイ・ブリッジを渡って、横浜横須賀道路に入った。 あとで考えれ ば、お台場の上を通るなど、ずっと黒船の時代に海だったところを、蒸気帆船 のマストのてっぺんぐらいの高さで走って行ったことになる。 それにつけて も、江戸と浦賀の距離はけっこうあって、黒船騒ぎの当時、連絡をするのは大 変だったろうと思った。 横須賀線はないし、もちろん電話もない。

 ペリー艦隊が浦賀沖に姿を見せたのは、嘉永6年6月3日(1853年7月 8日)午後5時ごろ、浦賀奉行所与力の中島三郎助が副奉行と詐称して交渉に 行き、艦隊がアメリカの国書を持参しており、直接高官(奉行)にでなければ 渡さないという強硬な姿勢だとわかる。 浦賀奉行戸田(とだ)伊豆守氏栄(う じよし)が早船で、江戸城内にいたもう一人の浦賀奉行井戸石見守弘道に報告、 これを老中首座(首相役)阿部正弘が知ったのは6月3日夜半か、4日に日付 が変った頃だったろうといわれる。 噂を聞いて、佐久間象山は6月4日夜に は、浦賀に駆けつけていた。

 陸路だと東海道を下り、川崎宿の次が神奈川宿、江戸からここまでの距離は 7里(約27キロ)、浦賀は神奈川宿からさらにほぼ同じ距離を南下した位置に ある。 当時の人は、急いで歩けば一日に10里以上は行けたが、普通は江戸 から出て、神奈川宿かその先の程ケ谷(保土ケ谷)宿で一泊したという。 と、 いうことは、佐久間象山は海路を船で行ったのだろう。

      福沢を謹慎からひっぱり出す<小人閑居日記 2003.5.27.>

 中島三郎助について、もう一つ。 福沢は二度目のアメリカ行きで、軍艦受 取委員長の小野友五郎にたてついて、帰国後の慶応3(1867)年7月謹慎 を命じられた。 福沢が大量の洋書を買い込むのを見て、小野が幕府でも洋書 を買って帰り、それを売りさばいて公儀のご利益にしたいと、福沢にその買い 入れ方を命じたのに、福沢が「政府が商売をするのか。 政府たるものが儲け 仕事をするというなら、私もその間で思うさまコンミッションを取るがどうか」 と、ねじこんだのを始め、事あるごとに官僚風を吹かせる小野に当ったからだ った。

 福沢が引っ込んでいると、だんだん時勢が切迫してきて、ある日、中島三郎 助がやってきた。 事情を聞き「ソリャアどうもとんだことだ、この忙しい世 の中におまえたちがひっこんでいるということがあるか、すぐ出ろ」「出ろった って、出さぬものを出られないじゃないか」「よろしい、拙者がすぐに出してや る」と言い、その時の老中稲葉美濃守正邦のところへ掛け合いに行ってくれて、 再び出ることになった、と『福翁自伝』にある。