幕末佐賀藩の科学技術と政治関与[昔、書いた福沢179]2019/12/23 06:54

 福沢からは少し範囲が広がるが、幕末の佐賀藩の動向を書いたものも出して おく。

       佐賀藩のテクノプロジェクト<小人閑居日記 2003.6.5.>

 6月1日、TBSテレビで「痛快!江戸テクノ」という佐賀藩の科学技術集 団「精煉方」を扱った番組があった。 関口宏の司会で、落語研究会のプログ ラムに掌事典を書き始めた江戸学の田中優子法大教授や藩主の末裔鍋島直晶氏 が出演した。 幕末、鍋島直正(と、番組では言っていたが、直正は維新後の 名前で、斉正、閑叟で知られる。文化11(1814)-明治4(1871)) が天保元(1830)年に15歳で藩主になるや、藩校弘道館出身の少壮藩士 を抜擢して藩政改革を断行する。 領地に長崎外海を含み、長崎警備の任に当 っていたところから、長崎を利用した貿易や西洋科学技術の摂取によって、軍 備の近代化を計る。 

 鍋島直正は、蒸気船を佐賀藩の手で建造することを最終目標にした科学技術 集団「精煉方」の主任に、緒方洪庵の適塾出身の佐野常民を江戸から呼び寄せ て起用した。 佐野は、藩外の者を採用しないという伝統を藩主に直談判して 破り、語学の天才石黒寛次(丹後田辺藩)や設計に長じた科学者中村奇輔(京 都)、久留米の田中からくり儀右衛門などさまざまな専門家を集め、蘭学プラス からくり技術の佐賀藩理化学研究所とでもいうべきテクノプロジェクトを立ち 上げる。 ペリー来航まであと2年、嘉永4(1851)年のことだった。

     自前の蒸気船とアームストロング砲<小人閑居日記 2003.6.6.>

 「精煉方」の研究開発は、佐賀藩を日本で一番進んだ科学技術を持った藩に する。 幕府が伊豆韮山に造った反射炉は佐賀藩の反射炉に学んだものだし、 江戸湾のお台場築造にあたっては50門の大砲を佐賀藩に注文している。

 嘉永6(1853)年6月のペリー来航直後の7月、ロシア艦隊が長崎に来 航する。 警備に当っていた佐賀藩の、ロシア艦への検分隊に入り込んだ中村 奇輔は、そのロシア艦で日本人として初めて蒸気機関車の模型が走るのを見て 感激する。 「精煉方」は、その模型と同じものを造ろうと努力し、安政2(1 855)年8月、蒸気機関車のひな形を造ることに成功した。 それから10 年、慶應元(1865)年には、佐賀藩はついにテクノプロジェクトの目標だ った自前の蒸気船凌風丸を完成するのである。

 大砲についても、佐賀藩は(よりレベルの高いものを視野に、敵国から買う のでなく、自分たちで作ろうとして)砲身内部に螺旋条溝がついたアームスト ロング砲を製作することを試み、水車とからくりを使った強い動力によって螺 旋条溝の加工に成功した。 上野の戦争で、その佐賀藩製アームストロング砲 の放った12発が彰義隊を吹き飛ばし、官軍に勝利をもたらすことになる。

        幕末の政治変革と佐賀藩<小人閑居日記 2003.6.7.>

 このTBSの番組まで、佐賀藩の科学技術についての認識がなかったのは、 大隈重信を通して、佐賀藩を見ていたからだった。 大隈は佐賀藩の教育の画 一性が不満で、というかその枠におさまりきれず、結局は飛び出し、それがや がては早稲田の創立へつながる。

 幕末の政治変革に果した役割ということになると、佐賀藩は、薩長にくらべ て、ほとんど目立った動きをしていない。 鍋島閑叟直正が、藩内政治に強い 政治力を発揮していたために、その内治第一主義におさえられて、志士たちは 藩外で自由な活動が出来なかったからである。 それにもかかわらず、薩長土 肥とならび称せられ、大隈重信、江藤新平、副島種臣など多くの人材を新政府 に送り込み、閑叟直正自身も議定となり、蝦夷開拓使長官に任ぜられた。 こ れは、ひとえに、佐賀藩の軍事力によるものである。 閑叟の半生は佐賀藩を 日本で最強の軍備をもつ藩にしたてあげることに費やされたといってよい。 奈良本辰也編『明治維新人物事典 幕末篇』(至誠堂)は、「鍋島閑叟」の項で、 そう説明している。