幕末横浜と事始め、ヘボン、岸田吟香[昔、書いた福沢180]2019/12/24 06:58

        横浜「中華街」の誕生<小人閑居日記 2003.6.8.>

 きょうは石川潔さんの「新・横浜歴史散歩」の3回目、講義の日で「よこは ま」の歴史を八つのなぜに分けて話を聴く。 1859年7月1日の開港にあ わせて新しく町を造成し「横濱町」が誕生した時、横濱村は消えてしまった、 というのがあまり郷土史家は書いていないという石川さんの見解である。 そ れまでの住民は、みんな移住させられてしまったから、「村」と「町」は不連続 で、名前を取られただけだというのだ。 日本人町の住民はといえば、幕府が 江戸や駿河(静岡)、武州(埼玉)、上州(群馬)、甲州(山梨)の商人を集めて 来た。

 なぜ「中華街」が誕生したか。 港に向って右手の外国人町(居留地)の欧 米商社の使用人として、中国人(当時は清国人)はやってきた。 通訳、買弁、 コック、下僕などとして。 条約を結んでいないのでパスポートがなく、18 78年に清国領事館が出来るまでは、集会所で籍牌という身分証明書を発行し ていた数が明治元年で660人、千人はいただろうといい、外国人の中では一 番数が多かった。 やがて、自分たちの家を持ち始め、それがチャイナ・タウ ン(清国人居留区)となる。 横浜の地図を見るとわかるが、風水の関係で、 この地域だけ東西南北の正方向に道路が走っている。 日本人向け中華料理屋 が出来たのは、案外遅く、明治の末になってからだったという。 私も親達が 言っていたので子供の頃は「南京街(まち)」とおぼえていた。 中国人を「南 京さん」と呼んでいたことによるという。 「中華街」となったのは、昭和3 7年の日中国交回復で善隣門がつくられ、「中華街」の看板が掲げられてからだ そうだ。(神戸はいまも「南京町」)

         横浜ことはじめ<小人閑居日記 2003.6.9.>

 前にペンキ塗りの日本発祥が横浜だと書いたが、横浜開港から文明開化のこ ろにかけて、そのほかにもたくさんのモノやコトが横浜をその発祥の地となっ ている。 パンフレットにまとめられているのをもらったので、その項目だけ を抜き書きしておく。

 <交通・通信>乗合馬車、乗合汽船、電信、電話、人力車、鉄道

 <商工業>クリーニング、洋服屋、理髪店、ビール、せっけん、西洋かわら、 マッチ、自転車製造

<建造物>運上所、町会所、イギリス領事館、ホテル、製鉄所、鉄の橋、公 衆便所、ガス灯、外国為替銀行、水道、大桟橋、生糸検査所、倉庫会社

<文化>横浜天主堂、和英辞典、新聞広告、日刊新聞、女学校、聖書和訳

<飲食物>牛乳屋、パン屋、牛肉屋、西洋野菜、西洋料理

<娯楽>マンガ雑誌、写真屋、競馬、外人劇場

          ヘボンの四大事業<小人閑居日記 2003.6.10.>

 「横浜ことはじめ」のうち、「和英辞典」と「聖書和訳」にかかわったのがヘ ボン、James Curtis Hepburn (1815~1911)だ。 当時は耳で聞いてヘボン とかヘイボンと呼ばれ、本人もそれを使ったが、ヘップバーンが正しい。 女 優のオードリーやキャサリンを、孫などと書く人もいるが、まっ赤な偽り、親 戚ではない。 キャサリンはスコッチ・アイリッシュなので、広くいえば一族 だが、オードリーはフランス系ベルギー人。 医療を通してキリスト教を伝え るための宣教医(医療宣教師)として横浜に来た。 牧師ではない。 最初が、 先月散歩で行った神奈川の成仏寺、それから居留地39番、やがて山手と、3 3年間、横浜に住んだ。 その間、四つの大事業を行なった。

 それは「和英辞典」「聖書和訳」に加え、「施療」と「教育」である。 無料 で医療活動を行なう「施療」に当り、たくさんの患者が押しかけた。 診た患 者の数は、10万人近いといわれ、西洋医療(手術や器具なども)が実地に行 なわれ、それを見られたことが、いろいろな影響を与えた。 入院患者に牛乳 を飲ませ、氷を使ったこと(函館から運び、室に入れておく商売になった)も そうで、医療器具は門下の医者早矢仕有的が仲間と輸入を試み、初めは店に陳 列しておく器具がないので、洋書を並べたのが丸善になる。 「教育」活動は、 1863年主に夫人のクララが担当してヘボン塾を始め、女子のためにつくっ たが、英学志望の男子が押し寄せ、男女共学の英学塾になった。 これがのち に明治学院となる。

 ヘボンは、77歳で隠居し、アメリカに帰るが、浦島太郎状態、96歳で亡 くなる。 日本ではヘボン式ローマ字にその名を残すが、アメリカでは、いま だに無名という。

       ヘボンの『和英語林集成』<小人閑居日記 2003.6.11.>

 ヘボンの「和英辞典」『和英語林集成』は、見出し語をローマ字で掲げ、片カ ナと漢字を並べ、用言には活用を簡単に示し、品詞を記してある。 つぎに語 の意味をやさしい英語で説明して引用例を示し、できるだけ同義語を加えてい る。 だが当時の日本には、これを印刷できる技術も機械もなかった。 ヘボ ンは、元治元(1864)年からその家に寄寓して辞書の編纂を手伝っていた 岸田吟香を連れて、印刷出版のため慶應2(1866)年10月上海へ行く。  二人は米人ウィリアム・ガンブル主宰の印刷所「美華書院」に通いつめ、ガン ブルは吟香が書いた五ミリ角の日本文字(国字…辻・凪・峠・袴・畠など)、片 カナ、平ガナをもとに、木の母型を作り、鉛活字を鋳造した。 印刷が長期に わたることがわかり、ヘボンは索引として英語で引くsecond partを付けるこ とにし、夜を日についでこれに打ち込む。  印刷製本が出来上がったのは慶應 3(1867)年4月だった。 初版1200部。  

 代価は18両と高価だったが、さる遠国大名の意向を受けた武士が三十冊の まとめ買いをしたのがきっかけになって、諸藩が競って買いに来るようになる。  その命運がつきようとする時期であるにもかかわらず、幕府の開成所も200 冊を購入した。

 この辞書については、望月洋子さんの『ヘボンの生涯と日本語』がくわしい。  望月さんは、ヘボンの『和英語林集成』が単なる和英辞書でなく、「本格的な日 本最初の「国語辞書」」であり、「言葉の大切さを教え、扱い方を示し、近代的 辞書の理念を日本人に贈った」、ごく普通に用いられている語彙を採用したので 「「気どりのない」言葉の宝庫となって、江戸時代末期の日本人の語彙を今に伝 える役目を果す」と、指摘している。

           岸田吟香のこと<小人閑居日記 2003.6.12.>

 名前が出てきたので、岸田吟香についてちょっとあたってみた。 なかなか 面白い人物である。 天保4(1833)~明治38(1905)、ほぼ福沢と 同時期の、新聞人、薬業界の功労者。 岡山の生れで、本名は銀次。 江戸の 藤森天山について漢学を学び、安政2(1855)年には三河挙母(ころも) 藩主の侍読に推挙される。 水戸派の藤森天山は幕府に追放され、その過激な 攘夷建白書が弟子の岸田の筆によるものだろうと疑われて、公儀の追及を受け 潜伏する。 吉原や浅草の芸妓屋で箱屋をしたり、湯屋の三助に身をやつした 当時の呼び名「銀公」をもじって吟香と名乗る。

 元治元(1864)年4月、眼疾をこじらせ、衣類も垢じみ、尾羽うち枯ら した風体で、箕作秋坪の紹介状を持ってヘボンを訪れる。 治療に通ううち、 ヘボンが吟香の憎めない人物と深い学識を知って気に入り、吟香もヘボンの人 柄に感じて攘夷をやめ、住み込みで辞書編纂を手伝うようになる。 ヘボンは 「ギンさん、ギンさん」と家族同様に扱い、『和英語林集成』初版の「申ス」の 用例に「名ヲギント申ス」の一行が見られるのを、望月洋子さんは「ほほえま しい」と記している。 前述した同辞書印刷の上海行きの頃、アメリカ帰りの ジョセフ・ヒコ、浜田彦蔵に啓発されて新聞に興味をもち、浜田の『海外新聞』 発行に協力した。 慶應3(1867)年回船商社を設立、汽船を購入して江 戸-横浜間の運送に従事。 68年にはアメリカ人ウェン・リード(バン・リ ード)と共同で『横浜新報もしほ草』を創刊、また独力で『金川日誌』を発行 した。 明治6(73)年『東京日日新聞』に招かれ、主筆として健筆をふる い、同紙の声価を高めた。

 その後、新聞界を離れ、ヘボンに伝授された目薬「精錡水(せいきす い)」を銀座に開業した楽善堂で製造・販売するとともに、上海に支店を開き、 日中貿易の促進や日中友好に奔走、日清貿易研究所、東亜同文会などの創設に 尽力した。 また新聞広告を重視したり、盲唖学校の先駆である訓盲院を設立 (1876)するなど、多角的な業績を残した。 画家の岸田劉生はその四男 である。