横浜山手散歩、居留地・外人墓地[昔、書いた福沢188]2020/01/11 06:54

       トワンテ山とフランス山<小人閑居日記 2003.9.14.>

 13日は「新・横濱歴史散歩」の最終回で、横浜山手を散歩してきた。 私 は1992年(平成4年)4月26日、福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で横浜 に行き、横浜開港資料館で開催中だった特別展「トワンテ山とフランス山~幕 末の横浜山手~英仏駐屯軍の四千二百日」を見て、初めて幕末にイギリスとフ ランスが横浜に軍隊を駐屯させていた事実を知った。

 イギリスとフランスは、1862(文久2)年に起きた生麦事件の翌年から 1875(明治8)年までの12年間、居留民保護・居留地防衛のため、横浜 山手に軍隊を駐屯させた。 外国軍隊の駐屯という事態に対し、幕府と明治政 府は粘り強い外交交渉を続け、ようやく明治も8年に至って主権を回復するこ とができたという。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第20連隊の陣地 があったことからトワンテ(トゥウェンティ)山と呼ばれ、現在のフランス山 にはフランス軍が駐留していた。 幕府の横浜居留地囲い込みの意図も、圧倒 的な軍事力の前には、簡単に破られてしまったことになる。 横浜居留民の数 をはるかに上回る英仏軍隊の駐屯は、生麦事件と同じ年に洋式軍制の導入を決 めた幕府にとって、恰好の教師になったのを始め、日本人社会にさまざまな影 響をもたらした。

       山手居留地の開発と発展<小人閑居日記 2003.9.15.>

 横浜の「山手(やまて)」というのは、居留地のある「海手(うみて)」に対 しての「山手」なのだという。 外国人はBLUFF(切り立った崖)と呼ん だ。 山手外国人墓地は1854年3月6日、ペリー艦隊のウィリアムズ二等 水兵が甲板に落ちて死亡したのを、元村の寺、増徳院裏山に埋葬したのが始ま りで、1864年(元治元年)幕府とアメリカ、イギリス、フランス、オラン ダの各国公使の間で締結された横浜居留地覚書によって、墓域の拡張が認めら れ、増徳院の上の高台に一区域が設けられた。

 「海手」の居留地は埋め立てなので、湿地で、水も悪かった。 商売は居留 地でしても、住居、学校、病院等は、よい土地にという希望から、1866年 12月(慶応2年11月)に幕府と外国側とで結ばれた「横浜居留地改造及競 馬場墓地等約書」により、山手の開発が進んだ。 住み始めたところから地番 がつき、その番号が現在に及んでいる。 これより先、1865年10月(慶 応元年9月)には、散歩の習慣のある外国人のための遊歩道がつくられた。 幅 3間(5.4メートル)全長2里12町(9.1キロ)、現在の山手本通りがそ れに重なるという。 1870年6月(明治3年5月)には、幕府時代から求 められていながら財政的に応じられなかった外国人用公園、山手公園がわが国 最初の西洋式公園としてオープンした。

 昨日書いた英仏両国守備兵だが、最初はイギリスが1,000名、フランス が250名という大規模なものだった。 若い兵隊の駐留だから、第二次大戦 後にあったと同じ混血児問題が発生したという話は、今回初めて聞いた。 そ うした混血児の教育の為に1871年にアメリカミッションホームという施設 が作られ、それはのちに横浜共立学園に発展したのだそうだ。

         山手西洋館めぐり<小人閑居日記 2003.9.16.>

 平成になってから、山手ではかつて外国人遊歩道だった山手本通り沿いに、 横浜市が整備したり移築復元したりして、7館の西洋館を公開している。 横 浜山手を訪ねても、海の見える丘公園と外人墓地を覗いただけで帰ってしまう と、見逃してしまう。 今回ゆっくり散歩したことで、よく整備されたいい建 物や庭園が、ゆったりと見られ、そこからの眺望もすばらしいことを知った。

 JR石川町駅の元町口(大船より)を出、元町に行く中村川沿いの一本裏の 道から、大丸谷坂(おおまるたにざか)にかかる。 左手にフェリス女学院の 高校・中学を望みながら登ると、一時イタリア領事館があったことからイタリ ア山庭園と呼ばれる庭園があって、(6)ブラフ18番館と(7)外交官の家の 2館がある。 ずっとカトリック山手教会の司祭館だったというブラフ18番 館を見学した。 この庭園の眺望はおすすめ。

 両側が落ち込んでいるので尾根道だということがわかる山手本通りを、カト リック山手教会まで行き、右折して山手公園へ。 日本で最初のローンテニス が1876(明治9)年に行われたというので建てられた、テニス発祥記念館 を見る。 英国人ブルックが1879(明治12)年にこの一帯に植えたこと から全国に広まったというヒマラヤ杉の巨木が見事だ。

 山手本通りに戻り、代官坂上へ、昭和5年に貿易商ベリック氏の邸宅として 建てられた(5)ベーリック・ホールを見学(一見の価値あり)。 ここ元町公 園地域には(3)山手234番館(4)エリスマン邸もある。 山手外国人墓 地入口前を右折、港の見える丘公園へ。 ここには(1)横浜市イギリス館(2) 山手111番館がある。 昭和12(1937)に英国総領事公邸として建築 されたという横浜市イギリス館は、昨年から一般見学もできるようになったの だという。 山手西洋館めぐりは約3時間、今は昔、デートコースとして最高 と思われた。

      外国人墓地とリチャードソンの墓<小人閑居日記 2003.9.17.>

 横浜山手散歩の最後に、外国人墓地に入った。 土曜日は維持費のための募 金をしながら、一部順路を公開しているのだ。 前に福沢諭吉協会の見学会で も入って、かなり丁寧に見て回ったことがあった。 ただ入口に墓地資料館と いうのが出来ていて、外国人墓地の概要がパネルで展示されている。 これを 先に見ておくと、墓の形やマークなどのことがよくわかる。

 前にも見た、青い目の噺家快楽亭ブラックの墓に頭を下げてきた。 生麦事 件のリチャードソンの墓は、一番下の順路外にある。 帰りに墓地に沿った坂 を元町へ下りた所を左にちょっと曲がって(元町から行くならウチキパン屋の 奥)、金網の塀から覗くと、見ることができる。 例の生麦事件参考館の浅海武 夫さんが、リチャードソンの墓のまわりに囲いを作ったりして整備し、覗く塀 にも看板を出したりしたのだという。 リチャードソンの墓に接した大きな桜 の樹はそのままだったが、前に墓の周りにあった十字の花を咲かせるドクダミ はなかった。 リチャードソンの墓の後ろに大きな四角錐の墓が見える。 ペ リー艦隊のウィリアムズの墓は三か月後に下田へ移葬されたので、この墓地で 一番古い墓だという。 1859年8月25日、横浜町で斬殺されたロシア海 軍の見習士官ローマンと水兵ソコロフの墓だそうだ。