福沢研究集中月間[昔、書いた福沢190]2020/01/13 06:59

        福沢研究集中月間<小人閑居日記 2003.10.17.>

 10月は、1日に日記に書いた9月27日の福沢諭吉協会の橋本五郎さんの 土曜セミナーに始まって「福沢研究集中月間」の趣がある。

 4日、11日、25日、11月1日の各土曜日は、『福沢諭吉書簡集』全9巻 完結記念の慶應義塾福沢研究センター主催の講演会と座談会が、三田キャンパ ス内の演説館で開かれている(各14時から)。 すでに終わった4日は坂野(ば んの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』-福沢諭吉の二大政党論をめぐ って-」、11日は金原左門さんの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-い くつかの福沢書簡を手がかりに-」、まだこれからの25日は佐藤能丸さんの 「海から陸への飛躍-岩崎・大隈・福沢-」、11月1日は金文京さん、中野目 徹さん、比屋根照夫さんの座談会「『福沢諭吉書簡集』の完結を記念して」。 こ のシリーズは慶應義塾主催なので無料だし、三田の演説館で開かれているので、 テーマに興味のある方、三田の構内や演説館を見たり入ったことのない方は、 ぜひ参加されるとよい。 これまでの2回、かなりの空席があった。 私は全 部出るつもりでいる。

 きのう16日と23日の木曜日の夜は、福沢諭吉協会の読書会「福沢書簡を 読む-「原点」を探る」が、神保町の岩波セミナールームで開かれている。 講 師は書簡集の編集委員を務めた飯田泰三さんと松崎欣一さん、書簡集第1巻の 安政4年から明治9年まで、福沢数え24歳から43歳までの青壮年期の手紙 から、福沢の原点を探っている。

 26日(日)から28日(火)は、福沢諭吉協会の福沢史蹟見学旅行で、長 崎と佐賀へ行く予定になっていて、楽しみにしている。 (実は、この10月24日に兄晋一が急逝したため、この旅行には参加できなか った。)

          二大政党制?<小人閑居日記 2003.10.18.>

 4日、腕を組んで演説している像を描いたとされる福沢が見下ろす三田の演 説館で聴いた坂野(ばんの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』(187 9~1898)-福沢諭吉の二大政党論をめぐって-」。

 1879(明治12)年は、福沢の『民情一新』や『国会論』が出た。 『民 情一新』当時、西南戦争が平定され、自由民権の運動が勢いを得ようとしてい る時期だった。 急激苛烈な政治的変革を好まないで福沢は、英国流の二大政 党制によって、適当な時期に平穏な政権交代の行われることを勧説した。

 1898(明治31)年6月は、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が大 同団結して憲政党が生まれた。 坂野潤治さんは、ここで生まれた「官民調和 体制」は、その後ずっと続いて、戦後も「55年体制」として続き、10年前 まではこの体制だったという。 今は、壊れそうで、壊れない状態だという。

 坂野さんは、二大政党制への失望を語った。

 1)現在の政治状況に関連させて、小選挙区制やマニフェストなどによって 制度的・人為的に二大政党制をつくろうとしても駄目、形ばかりの二大政党制 の議論にけりをつけ、福沢流の二大政党制論から足を洗う時かもしれないとい う。

 2)急進派(左派)なき保守・中道対立は面白いか?

 3)今度の選挙に勝つと、小泉政権は挙国一致の体制となる可能性があり、 読売新聞社説が書いたように、小泉挙国一致内閣はあと3年は続くのではない か?

        地方から近代化を推進する<小人閑居日記 2003.10.19.>

 三田の演説館での『福沢諭吉書簡集』完結記念講演会、11日は金原左門さ んの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-いくつかの福沢書簡を手がかりに -」だった。 金原さんは中央大学教授で、大正の民衆史がご専門の由。 「『近 代』づくり」というのは、“nation building”をイメージしていて、国の基礎 づくりに関心を持つ。 福沢の方法は、大久保、大隈とは明確に異なる。 地域 における民衆の「シビック・カルチャー」をどう創り出すか。 公的な面と、 私的な面の両方で、広くは学校教育を通じて、狭い範囲としては経済の分野な どで…。 福沢書簡の中から、福沢のそうした地域へのこだわりの水脈を読み 取ることが出来た、という。

 1)福沢の原体験のかけがえのない重み。 幕末の門閥制度を批判した福沢 だったが、中津の「福沢をめぐる人脈」が福沢を蘭学修業へ押し出し、以後、 旧中津藩の事業に助力や助言をし、特に中津市学校の設立にかかわった。

 2)「書簡」からみた福沢の地域へのこだわり。 「近代化」への教育条件を 探り、洋学校の設立を奨め、教師の斡旋・派遣をして、英語のできる「人物の 養育」に努めた。 産業経済の「近代化」に関心を持ち、商品流通のための市 場拡張を指南し、「生産力」増強のテコ入れとして、道路や鉄道など交通手段改 良のアイディアを出した。 地方政治に公論を生かすことを目指して、「民権の 保全」(民産の富殖、安寧の保護、民智の開闡(かいせん=ひろめること))を はかるため、代議制への道を説いた。

 3)地域の近代を担う日本型「ミッズルカラッス」に目をつけた福沢。 「智 識」を身につけた生活者で、かつ「近代化」の推進者層として、伝統思想(土 着思想)に立つ豪農商層に目をつけた。 旧士族の開明派リーダーへの育成を 考え、「西欧近代」型タイプの創出(洋学教師と実業人)をはかった。

 結論。 「民」の底力と「官」の支えによる後発型日本の近代へのハンドル さばき。 県・郡の政治・行政における「民」と「官」の気脈を通じての構図 づくり。 福沢は、この営為によって「独立自尊」の道を地で示した。

         箱根福住旅館と福沢<小人閑居日記 2003.10.20.>

 金原左門さんは『神奈川県史』のための「万翠楼福住」家の調査で、福沢に 出会ったという。 福住正兄(まさえ、九蔵)という人物がいた。 『福沢諭 吉書簡集』第一巻の【ひと】16などによれば、福住正兄は相模国大住郡片岡 村(現平塚市)の代々の名主で精農であった大沢市左衛門家の五男として文政 7(1824)年に生れた。 幼名、政吉。 二宮尊徳のもとで五年間学び、 『二宮翁夜話』をまとめるなど、明治期の報徳運動の推進者の一人となった。

 嘉永3(1850)年、箱根湯本の「万翠楼福住」家の養子に入って九蔵を 襲名し、報徳思想の「分度」(生活を倹約し)「推譲」(余ったものを拠出して、 社会へ還元、拡大再生産で貧困から脱出)の法により破綻に瀕した家業を再興、 翌年27歳で湯本村名主となった。 明治3年9月、発疹チフスでかろうじて 命を取り留めた福沢が、病後静養のため熱海、湯本、塔之沢などで湯治した際、 福住正兄(明治4年長子に家督を譲り「九蔵」を襲名させ、自らは正兄を名乗 る)と出会ったらしく、以後たびたび湯本福住、塔之沢福住に出かけている。

 明治6年塔之沢福住に滞在中、福沢は『足柄新聞』に箱根湯本から塔之沢ま での新道開鑿の提言を寄稿した。 その頃、東海道の本街道に沿っていたのは 湯本宿で、塔之沢は脇道へそれていたのでロクな道路もなく、早川に架けた仮 橋は大雨出水のたびに流されて、まことに交通不便だった。 福沢はみずから 資金を投じ、志を同じくする者が醵金に応じて新道を造り、永久的な橋を架け ることを呼びかけた。 この新道は福住らの尽力で14年11月に完成した。

 金原左門さんは、きのう書いた講演の柱2)3)の一例として、福住正兄の ケースを挙げ、ずっとかかわりを持ち続けた足柄県での実験には、福沢の一貫 性があらわれていると述べたのだった。