北里柴三郎と福沢諭吉[昔、書いた福沢191]2020/01/14 07:14

        北里柴三郎の三恩人<小人閑居日記 2003.11.18.>

 16日の日曜日、上野の国立科学博物館へ、前日から始まった「北里柴三郎 生誕150年記念展~感染症制圧への挑戦~」(12月14日まで)の、講演会 を聴きに行った。 北里一郎明治製菓会長の「祖父 北里柴三郎」と、大村智 北里研究所所長の「北里柴三郎の求めたもの」という話だ。

 北里柴三郎は嘉永5年12月20日(1853年1月29日)肥後国阿蘇郡 小国郷北里村に生まれた。 幼少より厳しい躾を受けて育ち、儒学を学び、世 のため人のために何かを実現したいという志を持つに至る。 明治4年(18 歳)熊本医学校に入り、オランダ軍医マンスフェルト(第一の恩人)に巡り合 い、その資質を認められて、医学の分野に突き進む。 苦学して明治16(1 883)年東京大学医学部を卒業(30歳)、ドイツ留学を命ぜられ(32歳)、 ベルリン大学ローベルト・コッホ(第二の恩人)研究室に入り、細菌学の研究 を開始する。 明治22(1889)年(36歳)破傷風菌の純粋培養に成功、 翌年には破傷風菌抗毒素(免疫体)を発見し血清療法を確立する。

 すぐれた学勲を打ちたてて、明治25(1892)年5月(39歳)帰国し たが、北里を迎えた日本の学界と帝国大学は冷淡で、北里が伝染病(今は感染 症という)が国内に侵入しても、いかに被害を最小限に食い止めるかが、国益 と国民の福祉にとって重要と考えて、訴えた一日も早い伝染病研究所の設立の 意見に耳をかすものはなかった。 適塾の同窓で親友の長与專斎からこの話を 聞いた福沢諭吉(第三の恩人)は、北里が研究室さえもてないのを日本の恥だ といい、芝公園内の自分の借地に私財を投じて伝染病研究所を建て、親友の実 業家森村市左衛門その他に資金援助を働きかけて、明治25年10月私立伝染 病研究所が設立された。 翌年には、福沢が白金三光町の地所を提供、森村と 建設費を半分ずつ出し合って、日本最初の結核サナトリウム「土筆ケ岡養生園」 が開設された。 北里は、医学を現実的に人々のために役立てるという実学の 立場から、予防医学を終生の指針とした。

         報恩の人、北里柴三郎<小人閑居日記 2003.11.19.>

 孫の北里一郎明治製菓会長だが、先日出た生誕150年の記念切手の北里柴 三郎にそっくりの方だった。 祖父柴三郎が、昨日書いた三大恩人に強い報恩 の気持を持っていたことを話した。 福沢については、その実学の精神に影響 を受け、コッホからも、実際に応用して、役に立たなければだめだという、こ れも実学の精神を教えられた。 明治33(1910)年にコッホが死ぬが、 翌年北里はコッホを祭った神社を建て、自分が死ぬまでの20年間、その命日 に祭事を続けた。 北里の死後は、その弟子たちが、北里の命日に祭事を続け ている(「北里・コッホ神社」というらしい)。

 明治25(1892)年10月に福沢の援助で設立された私立伝染病研究所 だが、明治32(1899)になって国立(内務省)に移管される話が出た。  北里が福沢に相談すると、「君の主義を立て、君の命令通りにするというなら、 官立にしてもいいけれど、政府の事だから何時どうなるかわからないから、足 もとの明るいうちに用意しておけ、即ち金を貯めなさい」と言われた。

 (これは一郎さんの話にはなかったが、福沢が北里に勧めて結核サナトリウ ム「土筆ケ岡養生園」を開設させたとき、学者は銭勘定に疎いものだから、経 営いっさいは自分の推薦する人物に一任するようにといって、その時北海道炭 砿鉄道会社いた田端重晟(しげあき)を事務長に据えてくれたので、養生園は 多額の積立金を保有することとなった。)

 福沢は明治34(1901)年に亡くなったが、その遺訓通りに、大正3(1 914)年政府は突如伝染病研究所を内務省から文部省に移管することを発表、 寝耳に水の北里は辞職、用意しておいた資金で即日、私立北里研究所を設立し たのだった。 北里は、福沢死後15年を経た大正6(1917)年慶應に医 学科(のちの医学部)設立の話が出ると、福沢の高恩にむくいるのは正にこの 時と、みずからの医科大学設立の構想をおいて、科長を引き受け、北島多一以 下門下の精鋭を率いて駆せ参じた。 北里柴三郎は、感染症の予防と治療を、 まことに丁寧に実践した。 「独立不羈」という言葉を好み、自分で考え、自 分で行動し、その行動に責任を持った。 「師のあとを追わず、師の求むる道 を歩むべし」と、言っていたという。

         田端重晟(しげあき)日記<小人閑居日記 2003.11.21.>

 北里柴三郎を雑務から解放し研究と医療に専念させるため、福沢の推薦で「土 筆ケ岡養生園」の事務長になり、養生園と北里研究所の経営基盤を確立するた めに生涯をささげた田端重晟(しげあき 1864.4.12-1945.2.12)は、日常生活 から仕事のことまで、一日も欠かさずに、毛筆で克明な日記を書いていた。

 北里研究所に保管されている(散逸した部分も多いというが)その日記を研 究して、正田庄次郎北里大学教授が「田端重晟日記からみた福沢と北里」(『福 沢諭吉年鑑8』1981)、「田端重晟日記にみる北里先生と養生園」(『福沢諭 吉年鑑10』1983)という貴重な論文を書いている。 「田端重晟日記」 は、その克明な記録としての価値から、『慶應義塾百年史』、『福澤諭吉全集』編 纂の際、慶應義塾に貸し出され、とくに『福澤諭吉全集』21巻の福沢の年譜 の作成に活用され、それを充実したものにするのに役立ったという。 そこに 記録されている、福沢と北里、福沢と養生園の詳細な関係は、福沢や北里とい う人物の肉声や行動、思想を伝えていて、まことに興味深い。

           牛乳瓶事件<小人閑居日記 2003.11.22.>

 正田庄次郎さんの論文「田端重晟日記からみた福沢と北里」に、「福沢と北里」 とでは、その思想、たとえば女性論(観)の面で、かなり隔たりのあったとい うことが述べられている。

 明治29年10月15日、福沢は田端に手紙を書いて、その朝、養生園から 福沢の家に配達された牛乳瓶に何か毛のような汚物が付いていたことを報せ、 その不潔な悪品一瓶を返却し「養生園之事業腐敗」記念として保存するように 指示し、養生園の不注意を厳しく叱った。 「細菌学の叢淵、消毒云々とて、 其注意の周密なるは、自家も信じ又世間も信ぜしめたる養生園のミルクにして、 斯の如しとは、何等之怪事ぞや。 畢竟病院事業之盛なるに慣れて、百事を等 閑に附し去る其結果之偶然に現れたるものと云ふの外なし」と、いかにも福沢 の手紙らしい文章である。

 その日夕刻、田端は三田へ行って福沢に謝罪、翌日報告を受けた北里も直ち に詫びに赴いたが、およそ3時間にわたって叱責されたという。 正田さんに よると、この年の2月の朝日新聞に北里が新橋の芸妓トンコを身請けしたとい う記事が出た、そのことが福沢の北里批判の背景にあったのではないか、とい う。 福沢死後まもなく、明治34年2月14日の田端重晟日記に、北里博士 がしきりに福沢の話をして、その遺著を求めたので、福沢が倒れる前に男子も この本を読むべしと書いた『女大学評論、新女大学』を贈ったとあり、「蓋シ、 此書ヲ再読シテ、博士ニ反省セシムルハ、福沢先生ノ本意ニテ、草葉ノ陰ニテ 喜バルルナラント思エバナリ」とある。

(参照 : 北里柴三郎と福沢諭吉の遭遇〔昔、書いた福沢30〕<小人閑居日記  2019.3.10.>)