北里柴三郎とノーベル賞[昔、書いた福沢192]2020/01/15 07:05

       北里柴三郎とノーベル賞<小人閑居日記 2003.12.1.>

 北里柴三郎について、一つ書くのを忘れていたことがある。 ノーベル賞の 問題だ。 図書館で見つけた最近の北里柴三郎伝、砂川幸雄著『北里柴三郎の 生涯』(NTT出版)などは、副題が「第1回ノーベル賞候補」となっているほ どだ。 ノーベル賞は福沢の死んだ1901(明治34)年にスタートしたの に、日本人がこれを初めて手にしたのは、48年後、私もその騒ぎを記憶して いる1949(昭和24)年の湯川秀樹さんの物理学賞だった。 その間の日 本人の学問水準は、低かったのだろうか。

 実は、1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞から、日本人北里柴三郎 に与えられるべきものであったというのだ。 その第1回の生理学医学賞は、 ドイツの細菌学者エミール・ベーリングに授与された。 受賞理由は「血清療 法、特にジフテリアに対する血清治療の研究」における業績だった。 しかし、 ベーリングのこの業績は、彼と同じロベルト・コッホの弟子で、先輩に当る北 里柴三郎との共同研究によるものだった。 しかも、北里は、それ以前に、こ の研究の前提となる「破傷風の免疫血清療法」という革命的な研究を成し遂げ ていたのである。

 砂川幸雄さんによると、北里とベーリングが二人の共同研究「ジフテリアと 破傷風の動物実験による免疫性の成立」を『ドイツ医事週報』に発表したのは 1890(明治23)年12月4日号・11日号で、それは医学の世界に革命 的な気運を巻き起こすことになる。 そのわずか一週間後、ベーリングはなぜ か単独で「ジフテリアの血清療法」を発表している。 そして1892(明治 25)年にはジフテリア坑毒素を市販し、コッホとの間に「感情のもつれが生 じたらしく」(科学朝日編『ノーベル賞の光と陰』)、1894年にはハレ大学の 助教授に転じ、ついで1894年マールブルク大学教授になっている。 そし て1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞の5年ぐらい前には、ベーリン グによる「血清療法の単独発見工作」が、たぶん完了していた(113頁)、と 砂川さんは推測している。

        北里柴三郎とベーリング<小人閑居日記 2003.12.2.>

 ちょっと昨日の補足。 ノーベル賞の選考過程は50年間は公開されないこ とになっているそうだが、すでに第1回の生理学医学賞の選考過程は明らかに なっている。 最初46人の候補者がおり、コッホやベーリングと共に北里も 入っていた。 選考委員会がさらに15人に絞った時も、北里は残っていた。  一方、ベーリングの名前は、この段階で落ちていた。 それが最終選考で、な ぜかベーリングが復活したという。

 昨日みたようにベーリングは「ジフテリアの血清療法」の論文を単独で発表 していた。 ジフテリアが、当時のヨーロッパで大流行していた深刻な小児病 で、ベーリングは世間から救世主のように見られたために、彼がだれよりも早 くノーベル賞を受賞したのではないかと、砂川幸雄さんは推測している。

 明治28(1895)年、東京でコレラが流行した。 5万5千人がかかり、 うち4万人が死亡している。 北里は府立広尾病院の嘱託になり、コレラの免 疫血清をはじめて試用した。 血清療法を施した193人のコレラ患者中、死 亡者は64人にとどめる、画期的成果をあげた。 この血清は北里の伝染病研 究所で製造されたものだったが、血清製造を官業にしたいという政府の要請を、 北里はこころよく承諾した。 明治29年、国立の「血清薬院」が芝公園でそ の事業を開始し、北里研究所はただちに血清製造を中止し、免疫動物や諸設備 一切を「血清薬院」に献納した。

 ところで、免疫血清療法の共同研究者で、この研究でノーベル賞を受けたベ ーリングは、製薬会社から権利料を受け取っていた、という。