小室正紀さんの「草間直方と福沢諭吉」[昔、書いた福沢194]2020/01/17 07:11

       「草間直方と福沢諭吉」<小人閑居日記 2003.11.24.>

 22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーだが、慶應義塾大学経済学部教授(近 世経済思想史)で最近福沢研究センター所長になった小室正紀(まさみち)さ んの「草間直方と福沢諭吉」という話だった。 草間直方(伊助、宝暦3(1 753)-天保2(1831))は、福沢が生れる前に死んだ(つまり時代が違 う)大坂のビジネス・エリート、京都の商家に生まれ、鴻池に奉公し、鴻池の 三別家の一つ尼崎草間家の女婿となり同家を継いだ。 文化5(1808)大 坂今橋に両替商を開業、大名貸で取引のできた肥後、山崎、南部など諸藩の財 政整理に尽した。 その一方で、貨幣史、物価史の精密な研究『三貨図彙(さ んかずい)』『草間伊助筆記』『篭耳集』などを著した。

 なぜ「草間直方と福沢諭吉」なのか。 草間直方の活躍した19世紀初頭は 転換期、変化の時代であって、そこからの草間の時代認識と展望が、福沢の考 え方につながるのだという。 19世紀初頭が転換期というのは、幕府や藩で 財政システムが行き詰まり、地方の経済が活発に動き出す。 草間は長期的に 米価は低下せざるを得ないと見通し、米(コメ)経済の限界を見た。 それは 大名貸、大坂利貸(りたい)資本の、貸倒れ、不良債権化による危機を意味し た。 草間は米価が下落しても、金銀の融通(流通)さえ円滑にいけば、経済 は問題ないとして、貸出を生産的投資のためのものに振り向け、各藩が特産品 の殖産興業に力を向けるべきだと、考えた。

 変革期の人間が何かを主張するためには、「客観的認識」と「内面的自己確立」 (自らの確信)が必要である。 草間の場合、それは『三貨図彙』にみられる ように変っていく現実をくわしく調べることであり、懐徳堂で学んだ儒学(「折 衷学」…朱子学・古学・陽明学などの派にとらわれず、それらの諸説を取捨選 択して穏当な説をたてようとする)に立脚点を求め、道徳性が経済の信用を支 え、万物の融通(流通)が宇宙の根本に通じると、考えた。 福沢のそれは『福 翁自伝』のいう「数理学」と「独立心」。

 小室正紀さんは新発見資料、金沢市立図書館稼堂文庫蔵の草間が肥後熊本藩 大坂勘局頭尾崎氏あて私書『むだごと草』(文化8年、1811)を主な材料に、 この講演をした。

        コメ経済とゼニ経済<小人閑居日記 2003.11.25.>

 小室正紀さんの指摘した、草間直方の活躍した19世紀初頭は転換期、変化 の時代だったという話だが、司馬遼太郎さんだとこうなる。 草間直方とほぼ 同時期に、大名貸の番頭で、しかも学者だった(草間とそっくり同じ、小室さ んの話にも出た)山片蟠桃(1748-1821)について書いている文章に ある(『十六の話』)。

 「江戸体制を考える上で、はたして、この体制が建前であるコメ経済であっ たのか、それともゼニ経済だったのか、ということに迷ってしまう。」 播州赤 穂の浅野家はわずか五万石ながら、赤穂塩という商品の収入(みいり)で、江 戸初期以来、城下の各戸に上水道がひかれていた。 仙台伊達家は五十九万五 千石、家格の差がありすぎて、たとえば両藩の通婚などはとてもできない。 家 格はコメで量(はか)られ、「貴穀賎金」穀ヲ貴(たか)シトナシ、金ヲ賎シト ナスといわれ、それは幕府の一貫した農本主義を言いあらわしていた。

 しかしながら、実質的にはゼニ経済なのである。 たとえば、仙台五十九万 五千石の米は、入用分をさしひき、余った一部は江戸へ飯米(廻米)として移 出されるものの、大部分は大坂へ換金のために運ばれ、堂島相場によって相応 のゼニに化して仙台に送られた。 仙台藩ではそのゼニでもって藩財政がまか なわれる。 藩は貴であるという建前があるため、それをゼニにする機関にじ かに触れることはできない。 建前では賎しいゼニに触れる機能は、いやしい 町人、大坂の町人がやるのである、と。

 小室正紀さんは講演のあとの質疑のなかで、19世紀初頭以来、全国の大小 260藩、各藩が行き詰まった経済をなんとかしようと苦闘した。 勘定方の 武士を中心に、藩札を出したり、物産を開発したりして、「国益」をはかった(「国 益」という言葉は、漢語ではなく、この頃できた新しい考え方だそうで、この 国は藩)。 その7~80年の試行錯誤の経験が、維新後に生きた(江戸時代と 明治の連続性)という話をした。

         山片蟠桃(ばんとう)<小人閑居日記 2003.11.26.>

 「コメと大坂」という題で、山片蟠桃について書いていたのを思い出した。  司馬遼太郎さんの『十六の話』(中央公論社)の「山片蟠桃のこと」という文章 を読んで、その清々しい生き方につよく惹かれたからだった。

    コメと大坂(等々力短信 第748号 平成8年(1996)9月5日)

 江戸中期以後、貨幣(流通)経済が盛んになると、コメを基本にして成立し ている各藩の財政は、どこも苦しくなってきた。 その対策として、外様藩は 換金性の高い商品、たとえば蝋、特殊な織物、紙、砂糖などを生産することに よって、金銀貨幣を獲得するように努めた。 その点、譜代藩はおっとりして いて、ことに中津奥平家は累代幕政に関与したから、幕府の直轄領政治が産業 に鈍感だったのに影響されてか、ほぼコメ依存のままだから、とくに苦しかっ たという。(『街道をゆく』「中津・宇佐のみち」) 

 福沢諭吉は天保5(1835)年、大坂堂島浜通りの中津藩蔵屋敷内の勤番長屋 で生まれた。 父百助(ひゃくすけ)が、回米方という蔵屋敷詰の役人だった からである。 回米方は、コメその他の藩地の物産を売りさばいて、換金する のを職務とする役人であるが、その実は、藩の物産を担保にして大坂の豪商か ら借金することや、その返済遅延の言い訳けをするのが、主な仕事だったらし い。 『福翁自伝』には、百助の人物について、普通(あたりまえ)の漢学者 で、金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えだか ら、そんな仕事が不平で堪らなかった、と書いてある。

 藩も蔵屋敷も、お侍としての威厳は保っているものの、実権はカネを持って いる豪商が握っていた。 福沢百助の時代より少し前、豪商のひとつ升屋に、 高砂から13歳の久兵衛少年が奉公に来る。 久兵衛は、のちに『夢の代(し ろ)』を書く山片蟠桃(ばんとう・1748-1821)になる。 主の重賢は、読書好 きの蟠桃に、大坂でもっとも権威のあった学塾懐徳堂に通うことを許した。 こ の恩は蟠桃にとって終生のものとなる。 重賢が死に、主家はにわかに傾く。  蟠桃は24歳の若さで、6歳の遺子重芳を擁して、升屋の再建にのりだす。 1 1年間の苦闘の末、天明3(1783)年、伊達59万5千石の仙台藩との信頼関 係を確立する。 蟠桃は、年貢を取り立てたあとの農民の「残米」を藩が現金 で買い取る方式を提案し、その「買米」を日本最大の消費地である江戸に回し た。 江戸市民の食べる米のほとんどは、仙台米になった。 仙台藩は、その 売上げで得た現金を、両替商に貸して得た莫大な利息によって、財政の建て直し に成功する。 コメ経済に、貨幣経済を組み込んだ合理的なシステムが、いか にも蟠桃らしいという。 仙台藩は、あたかも一藩の家老のように、蟠桃を遇 した。 あくまでも主家を立てた蟠桃は、番頭だからと蟠桃と号した。(司馬遼 太郎『十六の話』)