築地居留地の遊廓[昔、書いた福沢201]2020/01/24 07:00

         築地居留地の遊廓<小人閑居日記 2004.2.23.>

 以前、横浜散歩の折に、幕府が横浜居留地を急いで造った時、まっさきに今 の横浜スタジアムのところに遊廓をつくった話を書いた。 その後、友人たち とスタジアム隣の横浜公園で、岩亀楼の燈篭を見つけ、横浜市の解説銘文に「国 際社交場」とあったことも書いた。

 岩波文庫の東京日日新聞社会部編『戊辰物語』に、明治元年11月東京築地 に政府が居留地を造った時も、遊廓を開いていた話が出て来た。 これは知ら なかった。 「外国人お取持ちのため」「新島原」というのをつくり、仲の町が あり、華魁(おいらん)道中があり、引手茶屋などすべて本式で、島原八カ町 といい、鉄砲洲(慶應義塾発祥の地だ)に大門があったという。 居留地の外 人めあてに千名近い娼妓が脂粉をこらし、一時は大したもので、遊女屋のおや じは「天下のための商売」とひどく威張ったというが、後に、各方面からの反 対で、明治4年全部取り払われてしまった、そうだ。  ここまで書いて思い出したのだが、有吉佐和子さんの『振るあめりかに…』 というのは、ここの話だったかもしれない。