楠木正成と福沢の「楠公権助論」[昔、書いた福沢212] ― 2020/02/12 07:11
楠木正成と民衆<小人閑居日記 2005.2.28.>
23日放送の“その時、歴史が動いた”は「我が運命は民と共に 悲劇の英雄 楠木正成の実像」だった。 正成は河内の一土豪だった。 商業、輸送の利権 を握っていたらしい。 後醍醐天皇が倒幕の挙兵をし笠置山にこもったのに呼 応して、河内赤坂城で挙兵した。 その500の兵に対し、北条高時は数万で討 伐に向かった。 正成は地侍らしいゲリラ戦で応じ、石を投げ、岩や丸太を落 として、幕府軍に甚大な被害を与えた。 この時も、後年の金剛山千早城でも、 兵糧攻めにあっているが、城外と連絡する山伏や修験者(正成が山伏かもしれ ないという)の間道を使ったネットワークがあったらしい。
元寇の後、恩賞がなかったことで、武士の忠誠心が崩れた。 民衆の権力へ の不信も高まった。 民衆の中で識字率が高まり、反体制のネットワークは広 がった。 正成の活躍の情報が伝わり、各地の土豪が幕府の出先を襲った。 足 利高氏、新田義貞も立ち上がった。 民衆の力が、鎌倉幕府を倒した。
土豪、商業、輸送の利権、投石、地侍、山伏や修験者、どれもが網野善彦さ んの所論を思い出させる。
「悪党」、新興地主たち<小人閑居日記 2005.3.1.>
思いついて司馬遼太郎さんの『街道をゆく 人名・地名録』で「後醍醐天皇」 と「楠木正成」を見た。 「後醍醐天皇」(1288-1339)に、簡潔で気持よい要 約があった。 「鎌倉幕府が頼朝の死後、急速に弱体化するのは、関東を主とした「開墾農場 主」(鎌倉の御家人)の利益団体でありすぎたということであろう。かれらを鎌 倉体制の守護・地頭という栄爵にのぼらせ、全国を支配したが、かれらよりも 遅れて山野を開墾し小地主化した連中をすくいあげず、むしろこれを「悪党」 として差別し、その利益の保護をしてやろうとしなかったところにある。頼朝 の死後、北条氏が執権するがやがて右の全国的な不満をおさえかねるようにな る。その潜在的動乱につけ入ったのが、後醍醐天皇を中心とする武家以前の古 い律令勢力であったというのは、歴史がときに見せる奇妙な力学現象である。 かれらは尊王、正閏(せいじゅん)論、攘夷という政治論をふくむ宋学という、 およそ日本的実情にあわないイデオロギーを正義とし、公家権力の一挙回復を はかってクーデターを試みようとし、事前に北条方に発覚して、京都から逃げ る。外来のイデオロギーで武装したこの古代的勢力は、もっともあたらしい悪 党――新興地主たち(河内の楠木正成がその代表であろう)と結び、鎌倉とい う、成立早々に古くなってしまった武家体制とあらそう。それが、元弘ノ変 (1331年)とよばれる事変だったといってよい。京から逃げた後醍醐天皇は奈 良に逃げ、笠置山にこもったが、やがて北条方のために捕えられ、隠岐に流さ れた。すでに土地に関する不満が充満していた時代だったために、この事変が 起爆剤になって津々浦々が動乱状態になり、新興勢力は宮方(後醍醐方)に結 び、旧勢力は鎌倉の命をうけ、以後、室町期の南北朝の対立までつづき、なお 安定せず、戦国期に入り、はるかなのち、秀吉の統一と太閤検地でもって、そ ういう形での落着をとげるのである。」
楠木正成、水戸史観、「楠公権助論」<小人閑居日記 2005.3.2.>
『街道をゆく 人名・地名録』の「楠木正成」(?-1336)で、正成に鎌倉末 期の正規武士たちの水準からいえばまるで別種の人といっていいほど教養があ ったのには奇異な思いがするが、その教養の基礎は少年のころ観心寺に通うこ とによって培われたというのが通説だ、とある。
司馬遼太郎さんは言う、「王を尊び覇を賤(いやし)むという宋学という多分 に形而上学的な学問を身につけてそのイデオロギーに殉じたという意味では、 日本史上最初のイデオロギストであったかもしれない。かれのイデオロギーは かれの敵であった室町幕府においては悪思想であったが、ずっと降って徳川初 期に水戸光圀(みつくに)が主導した水戸史観によって強烈な正義の座にすえ られ、幕末、幕府を倒そうとする志士たちにとってたとえばマルクスのような 存在になり、ときには日本における革命の神というべき戦慄的な名前になった。 維新後、国史教育は水戸史観を継承したから正成は日本史上最大の神聖英雄 の座についたが、しかしその寿命は八十年で尽き、太平洋戦争の終了とともに、 かれを賞揚した宋学的な観念論史観は戦犯的なものとして追いやられ、それと 同時に正成の名は教科書から消えた。あるいは消えたも同然になった。」
ここで私が思い出したのは、福沢諭吉の『学問のすゝめ』第七編が「楠公権 助論」だとして、轟々たる非難を浴びたことである。 福沢は日本古来の忠臣 義士と称するものは、その死はいかにもはなばなしいけれど、単に封建的な主 従関係に殉じただけで、必ずしも正義人道のためでもなければ、世の文明に益 するものでもなかった。 ただ一人、佐倉宗五郎を例外として、ほかはいずれ も主人の使いに行って一両の金を落とし、申し訳に首をくくった権助と同断の 犬死を遂げたに過ぎない、と書いたからだった。
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