小室正紀さんの「江戸の思想と福澤諭吉」[昔、書いた福沢214]2020/02/14 06:58

       江戸時代の儒学をまるめる<小人閑居日記 2005.3.9.>

 1月10日風邪で行けなかった第170回福沢先生誕生記念会での小室正紀(ま さみち)福沢研究センター所長の講演「江戸の思想と福澤諭吉」が『三田評論』 3月号に出ている。 ありがたい。 これは聴くより、読んだ方が、分かり易 いかもしれない、と思った。

 江戸時代の儒学を、三つに絞って説明している。 1.朱子学 2.伊藤仁斎・ 東涯の学派 3.荻生徂徠の学派だ。 1.「忠孝悌信」忠義、親孝行、兄弟愛、 隣人愛に則った生き方をし、無私の心になること。 特に上に立つ者がそれを 率先して実践すると、下が自然に感化され、社会全体が道徳的社会が実現する。  これが明、清、李氏朝鮮で正統な国の教えとなった儒学、官吏登用試験「科挙」 での対象教養。 2.孔子の言行を記録した『論語』を精密に分析して、その本 質をこう考える。 人間は生まれつき、いいものはいいし、悪いものは悪いと 思う感情、人情がある。 だから社会のそれぞれの成員が、その自分の人情に 従って、それぞれの場で誠心誠意生きていくことで、実は「道」は実現される のだ。 平等主義的。 3.孔子が理想として語っている孔子以前の古代中国社 会を調べる必要があると、『五経』という書物を客観的に分析する。 経験的、 客観的にものごとを認識しようという態度、考え方。

 幕末には全国で260ぐらいの藩があったが、明治維新の段階で藩校を持って いた藩が215だった。 その215の藩校のうち、1750年以降、つまり江戸時 代の半ば以降にできたものが187校で、87パーセントを占めている。 江戸時 代の後半になって、儒学が広く武士層に学ばれ、知識人にも普及していった。  一般に普及するとともに、それぞれの学問が実態に合わないという感想が出て きて、朱子学だけではだめだ、仁斎学だけでも、徂徠学だけでもだめだ、それ らのよい部分を集めて折衷し、実態に合わせた思想をつくっていこうというの が折衷学である。

 専門家の、こういう大づかみの、噛みくだいた説明は、勉強になる。

      異端妄説、多事争論の大切さ<小人閑居日記 2005.3.10.>

 小室正紀さんの講演「江戸の思想と福澤諭吉」のつづき。 江戸時代後半の 折衷学の時代というのは、ばらした思想の部品をどのように体系化すればいい のかという、模索の時代だった。 ものを考えるいろいろな部品は用意されて いた。 福沢は儒学から蘭学、さらに英学に転ずるなかで、自分たちが模索し 求めていたものが何かということが、おそらく目から鱗が落ちるようによくわ かったのだろう。 西洋文明の思想を考える個々の部品は、すでに自前で揃っ ており、その部品をいかに体系化していくかということが、実は福沢の仕事だ ったかもしれない、福沢は明治のはじめに、近代文明の本質と日本の現状を的 確に把握し、それに指針を与えた、と小室さんは言う。

 この時代に、日本ではそんな福沢のような人物が出たのに、なぜ清国や朝鮮 では出なかったのか。 日本では儒学だけでなく、国学や蘭学その他、各藩も 沢山の私塾も、それぞれの考えで勝手にさまざまな学問の教育、研究をやった。  つまり文教が統一されていなかった。 実はこれこそが、日本から福沢のよう な人物が出てきた理由ではないか。 福沢は『文明論之概略』で「文明という ものは、どれもはじめは異端妄説から生れる」「文明というものは、多事争論か ら生れる」と言っている。 清国や朝鮮では、官吏登用試験「科挙」の試験科 目がほぼ朱子学に統一されていて、それが知識人の世界を基本的には朱子学一 辺倒にしてしまい、「多事争論」が生れなかった。

 結びで小室さんは言う。 現代は高度な情報化社会である。 うまくすれば 多様な情報が行き交う社会になる。 しかし下手をすると、一つの考え方に、 一気にまとまっていってしまう恐れもある。 研究機関、教育機関はよほど注 意しなければならない。 とくに慶應義塾は「多事争論」の価値を唱えた福沢 のつくった学塾だから、なおさら。

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