近間の福沢ゆかりの地を巡る[昔、書いた福沢216]2020/02/16 08:05

      近間の福沢ゆかりの地を巡る<小人閑居日記 2005.5.7.>

 7日は福澤諭吉協会の一日史蹟見学会。 第16回の今回は、身近な中央区、 港区内に点在する福沢諭吉ゆかりの地を巡った。 9時半、朝の銀座、交詢社 前で集合、あらためて昨年10月新装なった交詢社を見学した。 ロビー(「中 庭」と言っていたような)と、普段は会員しか入れないサロン(会員は男性に 限られているので、外部の女性は入れないことになる)。 ロビーには、福沢、 小幡篤次郎、鎌田栄吉、門野幾之進、宇都宮三郎の肖像画がかかっている。 福 沢と鎌田は、二世五姓田芳柳、門野は鹿子木孟郎が描いている。 サロンには、 福沢の胸像、交詢社入会を勧誘する福沢書簡、福沢自筆の交詢社大会演説草稿、 福沢の書を彫った「戯去戯来」の木額、竹堂鎌田栄吉筆「独立自尊」額などが あって、何度も交詢社に行っているが、初めて見た。

       鉄砲洲と新銭座の慶應義塾跡<小人閑居日記 2005.5.8.>

 交詢社のあと、旧電通前から観光バスに乗る。 余談だが、向かい側角みず ほ銀行支店は学校を出て最初に勤めた所で、私にとっての記念の地である。 築 地鉄砲洲、今の明石町へ行く。 聖路加国際病院前の三角の植え込みに「慶應 義塾発祥の地記念碑」「蘭学の泉はここに―解体新書記念碑」がある。 この一 帯は中津奥平藩の中屋敷があった所だからだ。 その長屋で福沢が藩命で蘭学 塾を開いたのは安政5(1858)年、前野良沢、杉田玄白らがオランダの解剖書 を苦心して翻訳したのはそれより87年前、明和8(1771)年のことだった。  恥かしいので内緒の話だが、ここは近くてなんとも遠い場所で、ずっとその存 在を知りながら、初めて行ったのだった。

 それから浜離宮へ行った。 木村摂津守の居た浜御殿である。 福沢が最初 に江戸に出てきた時、まず訪ねた中津藩の上屋敷は、木挽町汐留、浜離宮の入 口、今郵便局のある一帯にあった(また余談、山本周五郎の『彦左衛門外記』で五橋数馬が小舟で忍び込み、ちづか姫と逢引するのは、ここである)。

 浜松町の、芝新銭座慶應義塾跡へ行く。 慶應4年の竣工から、明治4年に 三田へ移るまで塾のあった場所で、上野の戦争の時、講義を続けていたという のはここである。 三田移転後は、攻玉社の近藤真琴に譲ったので、JRの線路 近く運動場を挟んで、廃校になった小学校の門前に「福澤近藤両翁学塾之跡」 記念碑だけが残っている。

       三田の演説館と麻布の善福寺<小人閑居日記 2005.5.9.>

 鉄砲洲、新銭座と慶應義塾のあとをたどって、三田についた。 北館下のカ フェテリアでバイキング式の昼食。 昔の学生食堂にくらべて、名前が変わっ た通りに、明るくきれいで今風になっている。 演説館で、ずっと福沢と演説 を研究してこられた松崎欣一先生から、講話を聴く。 この日のために『福澤 全集』で読むことのできる福沢の演説をまとめた「福澤諭吉の演説」一覧表を 作ってくださっていた。 宮崎神宮に明治末年建設の徴古館(旧徴古館、その 初代の建物)というのがあって、この演説館にそっくりなのだそうだ。 三田 演説会の記録には、聴衆400名、500名とかの記録もあり、2階に外部の人(女 性や職人も)が200名というのもあるそうで、どうやって入ったのだろうかと、 みんなで見回す。 福沢は『学問のすゝめ』12編にもあるように、スピーチを コミュニケーションの方法、学問の方法の一つ(話すこと=演説、話し合うこ と=討論→ものを考え、新しいものを組み立てる方法)として、練習し、普及 しようとし、弁舌さわやかな人材を育てることを目指した。 それが日本に根 付いたかは疑問である(西川俊作先生の補足説明…大リーグの選手のコメント など聞いても自分の考えをはっきり述べている。日本のスポーツ選手は「がん ばります。応援よろしくお願いします」と言うだけだ)。

 三田から麻布の善福寺へ。 福沢諭吉の墓をお参り、ふだんは見せないとい うきらびやかな本堂を拝見(弘法大師の開創と伝えられるから真言宗のはずが、 鎌倉期にこの地を訪れた親鸞に時の住職了海が熱烈に帰依して浄土真宗に改め たという)、ここは幕末から明治8年までアメリカ公使館だったので境内にあ る「初代アメリカ公使タウンゼント・ハリスの碑」も見た。 福沢の墓の手前 には、越路吹雪の記念碑があり、本堂の後ろには上部が膨らんだ座りの悪い宇 宙戦艦のような、ハウルの城のような巨大なマンションがそびえていた。