福沢索引2006年1月のブログ・堀越角次郎[昔、書いた福沢224]2020/02/24 07:02

「福澤先生と日本橋織物問屋」<小人閑居日記 2006.1.11.>
「第171回福澤先生誕生記念会」、白石孝名誉教授の記念講演「福澤先生と日本橋織物問屋」。 日本橋の、人形町通り界隈(堀留町・富沢町附近)は江戸時代、古着屋の町として知られた三流商業地だったが、明治20年代後半には、織物問屋の街になっていく。 明治を担う新興問屋は、二つの洋反物輸入品、金巾(かなきん・舶来木綿)とモスリン(メリンス)を扱って、財を成した。 その中心人物が堀越角次郎で、三代にわたって福沢と深い交流があった。  福沢は手元の余裕金を銀行代わりに堀越角次郎に預け、運用をまかせていた。

初代堀越角次郎<小人閑居日記 2006.1.12.>
 堀越角次郎(世襲名)の初代は、福沢の書いた墓碑によれば、旧名田島安平、文化3(1806)年、上州群馬郡藤塚村(現高崎市藤塚町)に生れ、少年の頃から豪放。 白石孝先生著『日本橋町並み商業史』を参照。 上州吉井宿の旧家で在方の絹を商っていた豪商マル文堀越文右衛門は、十代目のとき、吉井藩の財政再建にあたり、藩主の親戚紀州藩の資金を導入し、紀州藩の御用達となり、江戸への産物取り扱いを許され、紀州藩の遊金を西上州一帯の産物の買入と江戸への販売に用いて、藩を潤すと共に、堀越家の財を築いていった。 本船町に江戸店を「別家養子」として任されたのが堀越角次郎で、やがて暖簾分けで通旅籠町に呉服太物問屋を開く。 開港後の横浜に支店を設け、杉村甚兵衛とタイアップして舶来の織物を扱い巨富を築いた。 正規の教育は受けていなかったが洋学者の説に耳を傾け、また彼らの資金を預かり利殖を図って生計を助けたと言われている。 福沢は「商家の信用いかんを問えば、指を堀越家に屈せざるはなし」として、常に多額の金を預けていた。 福沢が明治12年、外国為替取扱銀行の必要を感じて横浜正金銀行の設立を企図し、大蔵卿大隈重信と事を諮ったが、出資者がなかなか集まらず苦慮しているとき、福沢の話を聞いた堀越角次郎が60~80万円を出資することにしたため(政府が100万円)、とんとん拍子に出資者が集まり開業することが出来た。 上州気質の豪胆な人物で、福沢の『民間経済録』にある「実業人」の典型的人物だった。 明治12年隠居して再び安平と称し、明治18年歿、享年80。

二代目堀越角次郎<小人閑居日記 2006.1.13.>
 二代目堀越角次郎は、天保10(1839)年生れ、上州吉井村のマル文本家の次男、幼名茂三郎、江戸に出て、家業のマル文大伝馬町店に従事し、元治元(1864)年初代堀越角次郎の婿養子となり、明治12年、二代角次郎を継承した。 福沢とは少壮の時期から面識があった。 人形町通り界隈の新興織物問屋は、20代、30代の若い経営者たちで、茂三郎は彼らに福沢に学んだ話をし、それが若い人たちの心の支えになった。 明治16年~33年の慶應幼稚舎生徒の父兄には日本橋織物問屋が多かった。 明治10年12月に出版された福沢の『民間経済録』はよく売れて、版木もぼろぼろになっていたのを、二代目堀越角次郎が、明治25年私費で再版した。 白石先生は、『民間経済録』は「経済原論」に使えるいい本で、物価、貨幣、金利、財政、保険、銀行、運輸交通、公共事業まで易しく解説しており、官尊民卑に屈する商人根性を戒め、実業人の心得として、経済に大切なものは1.智恵、2.倹約、3.正直、と説いている、と述べた。 
明治20年代モスリン市況が崩落し、その対策として同じ洋反物問屋の先駆者杉村甚兵衛とはかり、問屋仲間の組合「モスリン商会」を設立し、その折に福沢の推薦で支配人に迎えたのが、後に三越の初代専務となった日比翁助。 モスリンの国産化にも挑戦し、明治28年には、初の国産メーカー「東京モスリン紡織株式会社」の設立を杉村と企図する。 だが会社が出来る直前、二代目堀越角次郎は57歳で亡くなる。 福沢の書いた墓碑に「商事に敏なると同時に、特に西洋文明の学説を悦び、畢生重んずる所は独立不羈の一義」、居住の日本橋区の学校教育を率先して助成し、慶應義塾にも巨額の寄付をして、その学事を奨めたとある。

その後の堀越家と実業人の心得<小人閑居日記 2006.1.14.>
 二代目堀越角次郎の長男直治郎は、明治4年生れ、明治19年11月、数え年16で幼稚舎に入塾。 福沢は「直さん」と呼び、鎌倉や箱根に遊ぶ福沢一家と、直治郎がいっしょに行動しているのが福沢書簡に見える。 20歳で学窓を離れ家業に従事、23歳で渡米もしている。 二代目が明治28年に亡くなると、直治郎は三代目堀越角次郎を襲名、東京モスリンなどの経営に当っていたが、明治29年26歳の若さで夭折してしまう。 残された嗣子は四男の善七で、11歳に過ぎなかったので、堀越家は明治30年呉服織物問屋を廃業、資産管理に専念することになる。
 白石孝先生は、結論として堀越角次郎の成功の要因に関連し、福沢の『実業論』から実業人の心得・三か条を、味わうべき言葉として述べた。 (1)知識見聞を広くして内外の事情をつまびらかにし、時勢の進退に注意して、機会をつかめ。 (2)気品を高尚にして、約束を重んじること。 (3)事物の範囲を決め、なるべく規則によって進退し、みずから犯すべからざる範囲を設けて、みずからこれを犯さず、また他をして犯さしめざること。

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