福沢索引2006年6月のブログ・『時事新報』論説の扱い方[昔、書いた福沢238] ― 2020/03/17 07:02
『時事新報』論説の扱い方<小人閑居日記 2006.6.25.>
5月20日の福澤諭吉協会総会後の記念講演で、小室正紀福澤研究センター所
長の「松方デフレ期における福澤諭吉の経済思想―明治16年『時事新報』社
説を中心にして―」という話を聴いた。 『時事新報』社説といえば、平山洋
さんの『福沢諭吉の真実』(文春新書)以来、その扱い方が難しい。 福沢につ
いて議論する時、研究者によって、『書簡集』だけに限るやり方をしたり、その
問題に立ち入らないようにしたりしている。
小室さんは、明治16年の『時事新報』社説を、『福澤諭吉全集』に載ってい
ないものまで全部読んで、その筆者に「福沢たち」「福沢ら」という表現を使い
(松崎欣一さんの『時事新報』工房説(レンブラントのような)にも言及)、『書
簡集』とも付け合せながら説明した。 『時事新報』論説の読み方については、
「演出家兼主演者としての福沢諭吉」と考える必要があるとして、そこに演出
的な表現があることから、断章的引用(レッテルを貼ること)の危険性を指摘
した。 全集に載っている社説は、大方針というか文明論であり、全集に載っ
ていないものは各論で、同じテーマがさまざまな形で変奏されていることを、
具体的な例を挙げて説明してくれた。 『時事新報』論説を扱う、その真摯な
姿勢に感心し、この問題に対応する妥当なやり方だと感じた。 そして、学者
はみんな読まなければならないのだから、なかなか大変だと思った。
5月20日の福澤諭吉協会総会後の記念講演で、小室正紀福澤研究センター所
長の「松方デフレ期における福澤諭吉の経済思想―明治16年『時事新報』社
説を中心にして―」という話を聴いた。 『時事新報』社説といえば、平山洋
さんの『福沢諭吉の真実』(文春新書)以来、その扱い方が難しい。 福沢につ
いて議論する時、研究者によって、『書簡集』だけに限るやり方をしたり、その
問題に立ち入らないようにしたりしている。
小室さんは、明治16年の『時事新報』社説を、『福澤諭吉全集』に載ってい
ないものまで全部読んで、その筆者に「福沢たち」「福沢ら」という表現を使い
(松崎欣一さんの『時事新報』工房説(レンブラントのような)にも言及)、『書
簡集』とも付け合せながら説明した。 『時事新報』論説の読み方については、
「演出家兼主演者としての福沢諭吉」と考える必要があるとして、そこに演出
的な表現があることから、断章的引用(レッテルを貼ること)の危険性を指摘
した。 全集に載っている社説は、大方針というか文明論であり、全集に載っ
ていないものは各論で、同じテーマがさまざまな形で変奏されていることを、
具体的な例を挙げて説明してくれた。 『時事新報』論説を扱う、その真摯な
姿勢に感心し、この問題に対応する妥当なやり方だと感じた。 そして、学者
はみんな読まなければならないのだから、なかなか大変だと思った。
最近のコメント