福沢索引2006年7月のブログ・読史五十年から得たもの[昔、書いた福沢241]2020/03/20 06:53

読史五十年から得たもの<小人閑居日記 2006.7.25.>
 22日、慶應義塾創立150年記念事業の一つ「復活!慶應義塾の名講義」の第
6弾、森岡敬一郎名誉教授の「読史五十年から得た教訓と反省」。 三田キャン
パスの第一校舎121番教室、きれいに改装はしてあるが、40年以上の昔、高木
寿一教授の「財政学」や飯田鼎助教授の「社会政策」の講義を受けた記憶のあ
る教室だ。

 森岡先生は文学部の西洋史、マグナ・カルタの研究がご専門、9月には84
歳になられる。 戦争から帰って、なぜイギリスに負けたのかを考えた。 そ
れでイギリスの歴史、憲法や制度、マグナ・カルタの研究に入って行った、と
いうのだ。 私は、司馬遼太郎と同じだ、と思った。

 肝心の、なぜイギリスに負けたのかの要因(つまりあちらにあって、こちら
にないもの)。 一つは、最大のものや理想的なものでなく、考えられる次善の
ものを選択すること。 もう一つは、人間は不完全なものであるという人間観。 
それは、福沢先生の人間蛆虫論、人事には絶対の美がない、どこか欠陥がある
けれど、それを承知の上で謙虚に努力する、というのに通じるところがある。 
利己心を捨てることで、謙虚さを得るというアダム・スミスの話も出た。

 専横な王様にマグナ・カルタを認めさせる以前の時代には、王様は毎年赤字
なので、戦争をやる、つまり「桃太郎」をやった。 太平洋戦争で、日本が中
国に出かけ、さらに南方の石油を目指したのは、8~9世紀の頭で、20世紀を
やったのだ。 古い歴史も、現代につながる教訓がある、というお話だった。

詩人たちの国で<等々力短信 第1129号 2020(令和2).3.20.>2020/03/20 06:55

 「小生いまや くたびれ果てました」と、お年賀状の添え書き「いつも貴通信、 愛読しております」に続けられていて、心配していた。 芳賀徹さんが、2月 20日に胆嚢癌のため88歳で亡くなり、短信は長い大切な読者をひとり失った。  賀状の印刷部分は芳賀さんらしく、<鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふ べし>という三橋(みつはし)鷹女の句を引き、「すてきな一句ですね。鷹女五 十二歳の昭和二十六年の作だそうです。「鞦韆」はぶらんこ(ふらここ)のこと。 古代ギリシャの昔から、宋代の中国でも、李朝の朝鮮でも、ロココ時代のフラ ンスでも、徳川の平和の日本でも、春になると若い娘たちは春衣に着替え、花 咲く枝に美しい紐を垂らし、それに乗って高くゆらして遊んだとのこと。/こ の句でも「漕ぐべし」の命令形で力いっぱいに蹴り上げ、「愛は」、「奪ふべし」 でさらにも春空高く攻めてゆきます。令和の日本でもこんな元気な若い人たち のぶらんこの声があちこちから聞こえてきますように」と。 新聞の訃報に、 「専門は比較文学、近代日本比較文化史。東大教授、国際日本文化研究センタ ー教授などを歴任し、99年から07年まで京都造形芸術大学長を務めた。」とあ る。

昨年7月の短信では、5月出版の『桃源の水脈―東アジア詩画の比較文化史』 (名古屋大学出版会)を紹介した。 陶淵明の「桃花源記」が東アジア諸国の 文化の中に「桃源郷」という一つのトポスをつくりあげ、流布させ、中国、朝 鮮、日本の文学と美術に長く影響を及ぼしたとして、沢山の実例を考証し、そ れが芳賀さんお得意の徳川の平和の日本で、桃源の詩画人、與謝蕪村によって 桃花のごとき花盛りの季節を迎えたとする。そこで9月の短信には折から開か れていた、與謝蕪村とその弟子呉春(松村月渓)の作品を中心に展観した大倉 集古館の「桃源郷展」の案内を同封したのであった。

 芳賀徹さんを知ったのは、昭和43(1968)年5月の中公新書『大君の使節 幕 末日本人の西欧体験』を読んで魅了されてからだ。 その5年後、11月10日 に三田の塾監局で開かれた福澤諭吉協会の第一回「土曜セミナー」で、まだ東 大の助教授だった芳賀さんの「福澤諭吉の文章」を聴いた。 特筆したいのは、 平成4(1992)年秋の福澤協会「芳賀徹氏と『西洋事情』を読む会」を短信に 書いたのをきっかけに、明治日本の水道の先生W・K・バルトンが、近代日本 のシナリオとなった福沢諭吉の『西洋事情』に大きな影響を与えた、ジョン・ ヒル・バートンの長男だったことが判明したことだ。

 「この列島の代々の住民の窮極のアイデンティティは、これが詩の国、詩魂 の国」「天地山川のわずかな動きにも心おののき、わが身の小ささを感じ、人間 の命運に想いを馳せずにはいられぬ詩人たちの国である。」(『詩の国 詩人の国』 筑摩書房)


(毎月25日発行の「等々力短信」、この号を20日付で発信したのは、芳賀徹 さんの月命日に当り、お彼岸の中日だったからです。)