「俳句のおもしろさ」を中高生に語った芳賀徹さん ― 2020/03/25 07:06
家内が、渡辺木版画店でもらったきた『銀座百点』の1月号に、芳賀徹さん の「鷹女と多佳子」というエッセイがあった。 2月号の新年句会は既に読ん でいたから、1月号がたまたま残っていて、これを読めたのは僥倖だった。 毎 月25日発行の「等々力短信」だが、第1129号「詩人たちの国で」を20日付 で出したのは、芳賀徹さんの月命日に当る、お彼岸の中日だったからである。
「鷹女と多佳子」によると、「先日」というから昨秋、芳賀徹さんは初めて三 重県の桑名を訪れ、津田学園中高等学校という私立の一貫校で一こまの講義を した。 日本藝術院の派遣とあるが、それが可能なほどお元気だったわけだ。 好奇心いっぱいという顔つきの中一から高二までの60人ほどの少年少女に、 「俳句のおもしろさ」と題して、お好きな古今の句を十数句選んで、それにつ いて語ったという。 芭蕉、蕪村、虚子、漱石から中村草田男、川端茅舎、松 本たかし、篠原梵、それに永田耕衣まで、四季と無季にわけて十数句だった。 感想文では、どの句が気に入ったかを語るレポートがおもしろかったが、お気 に入りのトップはやはり芭蕉の地元桑名の浜辺での名作<明ぼのやしら魚しろ きこと一寸>。 清少納言も讃えた春の夜明けの、海(伊勢湾)と空の境目も なくひろがる藤色の光のなかに、その光を一身に集めるかのようにしていま詩 人の手のひらに踊る、あの小さな透きとおるような白魚、一匹か数匹か――と 語ると、生徒たちはいまはじめて目がさめるような顏をした。 句の最後にわ ざと、「一寸(いっすん)」と漢音の撥音(はつおん)を使ったのは、この小さ な小さな魚に宿る生命の躍動を伝えてさすがみごとだ。 こういう小さなはか ないものが見せる、それだけいっそう懸命な健気な命の力といのちへの願い、 それを感じとることを日本では昔から「もののあはれ」を知る、という。 そ れが日本文化のいちばん深いところを流れる感受性の伝統なのだよ、と説くと、 少年少女たちはみなうなずいてくれたように見えたそうだ。
十代半ばの生徒たちを少しばかりどきどきさせてやろうと考えて、正統なま じめな(?)名句のなかに、芳賀さんがしのばせたのが、春に三橋鷹女(1899 -1972)、冬に橋本多佳子(1899-1963)、お好きな女性俳人二人、「女うた」の 名手、すっきりと姿美しい女人の句だった。 鷹女の句は、短信に引用したお 年賀状にあった<鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪ふべし>。 読みは、 お年賀状の通りだが、ぶらんこ遊びの起源は、おそらく古代ギリシャ、その地 出土の大杯に、若い女が木の枝につるしたぶらんこに乗って、背を半獣神に押 させている絵があると、碩学原勝郎博士が述べたという。 中国に渡って、宋 の詩人蘇東坡には名吟「春宵一刻値千金……鞦韆院落(いんらく・宮殿の中庭) 夜沈々」(春夜)があった。 日本にも平安時代にすでに伝わっていたというが、 詩では18世紀京都の蕪村の友人炭太祇(たんたいぎ)に<ふらこゝの会釈こ ぽるゝや高みより>とのなまめかしい一句がある、と語る。
多佳子の句は、同じ昭和26年の、<雪はげし抱かれて息のつまりしこと>。 15、6歳の少年少女には少し刺激が強すぎるかな、と思いながらも、まさにそ れゆえに挙げたのだが。彼らは思いがけぬほどによく反応した。 多佳子は東 京本郷のお琴山田流の師匠の孫娘で、鏑木清方の《築地明石町》の女なみの美 貌の持主だった。 大正6(1917)年満18歳の年に、大阪の材木商の次男坊 でアメリカ帰り、11歳年上の橋本豊次郎に惚れこまれて、その年結婚した。 こ の教室にいた年長の少女たちよりも、わずか1、2歳年上のときのことである。 この句は、その二人のはじめての頃の逢瀬の夜の回想だろうと、芳賀さんは思 い込んでいる。 夫豊次郎は妻多佳子に思いきり贅沢な暮しを与えてくれたの ちに、この句の14年前、妻と4人の娘を残して亡くなっていた。 「息のつ まりしこと」とは、50歳をこえたばかりの女の、切なくもなまなましく残る感 覚を告白する一句である。 教室はさすがにしばしし―んとした、そうだ。
芳賀徹さんのこの講義を聴いた少年少女が、深い感銘を受けたであろうこと は、容易に想像できる。 そして、その後芳賀徹さんの訃報に接して、さらに 深く「もののあはれ」を知ったことであろう。
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