「応仁の乱」前夜、混乱の時代の幕開け(前半)2020/03/31 07:00

 その呉座勇一さんが、磯田道史さん司会の「英雄たちの選択」で、『京都ぎら い』(朝日新書)の井上章一国際日本文化研究センター教授と、京都東寺の境内 で「応仁の乱」前夜、混乱の時代の幕開けを語っている番組を見た。 呉座さ んは、この時代は銭(ぜに)、貨幣経済が発達し、「土倉」「酒屋」という金融業 者、つまり高利貸が力をつけ、格差が拡大した、今に似た時代だった、と切り 出した。

 「応仁の乱」26年前の、嘉吉(かきつ)元(1441)年6月24日、「嘉吉の 変」が起きる。 六代将軍足利義教(よしのり)が酒の席で、播磨守護大名の 赤松満祐(みつすけ)に惨殺されたのだ。 その場を管領(かんれい)No.2の 細川持之は逃げ出し、他の大名も皆逃げた。 義教は大名家の家督争いに介入 し、「万人恐怖」と呼ばれていた。 井上章一さんは、家を誰に継がせるか、長 男が駄目で、次男を担ぐ家臣がいたりする家督争いに、他人がそこに口を出す、 最悪のパターンを数々やった、と。 細川持之は、義教の子義勝を七代将軍に 立て、幕府軍(山名持豊)に播磨に戻った赤松討伐を命ずるが、山名はなかな か出陣しない。 持之は義教のイエスマン、調整型の人間で、重臣たちは欲で 集まった集団、サークル社会、本当の仲間だと思っていない、村の寄合のよう なもので、緊急時に機能しなかった。 持之は、後花園天皇に赤松討伐の綸旨 を出してもらうよう働きかけ、朝廷と幕府の関係ができる。 山名持豊(宗全) はようやく出陣、播磨で赤松を自刃させた。

 「嘉吉の変」の2か月後、9月3日、一揆勢が幕府を支える五山の一つ、東 福寺を占拠する。 「土一揆」(室町時代、近畿を中心にしばしば起こった百姓 らによる一揆。年貢の減免や徳政を求め、あるいは守護の支配に抵抗した(『広 辞苑』))勢は三万で、主要な寺社を占拠し、京都七口を抑えて都を包囲し、「土 倉」「酒屋」に押し寄せた。 足利家は寺社に荘園や特権(北野天満宮に酒麹の 独占)を認めていた。 農民は、荘園を持つ寺社の過酷な年貢に追われ、金融 業者の借金と利息にも追われていた。 一揆勢は、流通経路を抑え、徳政令(借 金帳消し)の発令を要求した。 質物の11分の1を納めて、借金の帳消しを 求める。

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