足利義政は死ぬまで徴税できる政治権力者だった2020/04/02 06:55

 呉座勇一さんが、朝日新聞に連載していたコラム「呉座勇一の歴史家雑記」 を、あらためて読んでみた。 3月26日の最終回は「歴史学にロマンはいらな い」、歴史小説家が「歴史の真実」を解き明かそうとすること、話を面白くしよ うとして、ひねった解釈を提示することの危険性を指摘している。 「歴史の ロマン」を求める気持ちは、真実を探求する上では邪魔になる、歴史学は、い かに身も蓋もない、退屈で凡庸な話になろうとも、最も確からしい解釈を選ぶ ものだというのである。

 昨年12月18日の「足利義政のイメージは本当か」では、日本人の歴史観は 歴史学界での議論ではなく、有名作家による歴史本によって形成されてきた、 とする。 そして百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎)を検討する。 同書は足利 義政を、政治意欲がなく「趣味の世界」に生きた無責任な将軍で、「応仁の乱に 疲れ政治の世界から逃避するために」東山山荘(現在の銀閣寺)を造ったと評 価する。 こういう義政像は戦前以来のもので、世間に根強く残っている。 し かし、呉座勇一さんは『応仁の乱』(中公新書)でも論じたように、この見方は 正しくなく、義政が自らの理想の芸術を実現するには莫大な金が必要で、東山 山荘の造営にあたって、臨時課税(人夫・資材の徴発を含む)によって工事費 を捻出しようとした。 この増税には反発が強く、滞納の続出により建設工事 は遅滞した。 けれども、ここで注目すべきは、将軍職を息子の義尚に譲った 後も、義政が依然として徴税を行えたという事実だ、という。 義政は死ぬま で政務に関わり続け、権力を手放して集金できなくなることを避けた。 政治 権力者と文化・芸術の保護者という二つの立場は、切り離すことができないの だ、そうだ。