大河ドラマ、呉座勇一さんの見方と、『麒麟がくる』 ― 2020/04/05 07:26
呉座勇一さんは、「私たち日本史研究者の間ではNHKの大河ドラマの評判は 芳しくない。専門家だから、つい厳しい目で見てしまうのだ。」と言う(「呉座 勇一の歴史家雑記」朝日新聞2018年11月13日「ドラマ「真田丸」の妙」)。 細かい事実関係より世界観の方が気になり、近年の大河ドラマで顕著なのは、 現代的価値観を持ち込みすぎている点だそうだ。 側室が当り前の社会で、正 室があからさまにヤキモチを焼く。 戦乱が日常的に起きた時代に、主人公が 平和主義を唱える。 とはいえ、現代的価値観と懸け離れた思考の登場人物ば かりでは、視聴者が感情移入できない。 この点で、呉座さんが巧妙だと見た のが、2016年の「真田丸」で、視聴者の分身を登場させたことだ。 それが真 田信繁(堺雅人)の幼馴染という設定のきり(長澤まさみ)である。 彼女は 現代的価値観を現代的な言葉遣いで語り、作品世界で明らかに浮いていた。 そ れは、彼女が視聴者の代弁者だからに他ならない。 要するに、現代的価値観 を作品の基調にするのではなく、スパイス的に用いるべきだ、というのだ。
その呉座勇一さんの見解から、今年の大河ドラマ『麒麟がくる』を考えてみ よう。 まず主題、戦乱のない平らかな世をもたらす「麒麟がくる」のを期待 しているというのだから、基調、大きなテーマは平和主義である。 時代の傍 観者のような明智光秀十兵衛(長谷川博己)を主人公に据えて、戦国時代の只 中に派遣して、美濃の斎藤道三家、京都の足利将軍家、尾張の織田家、駿河の 今川家、三河の徳川家の現場へ、カメラを持ち込んでいる。 作者の池端俊策 さんが、呉座勇一さんのコラムを読んだかどうかわからないけれど、完全にそ の見解を逆手に取り、明智光秀を視聴者の身代わりにして『麒麟がくる』を書 いたかのように思えるのだ。 明日、触れるが、明智光秀は40代になるまで の動静が詳しく分かっていないそうで、それも時代の傍観者としての設定を強 く後押ししている。
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