『麒麟がくる』の天文年間2020/04/06 07:04

 大河ドラマ『麒麟がくる』が始まった時、第一回の「光秀、西へ」でナレー ションの市川海老蔵が、年号の「天文」を「てんぶん」と読んだと、パソコン 通信以来の知人、国語学のやまももさんがブログ「やまもも書斎記」に書いた。  「てんもん」と読ませたいのだろう。 おせっかいな私は、「『広辞苑』は「て んぶん(テンモンとも)」ですね」と、コメントしたのだった。

 『麒麟がくる』、タイトルの初めに「天文〇〇年」と出て、まだずっと天文年 間が続いている。 NHKは『麒麟がくる』のホームページに、以前の大河で は付けていた、年表を出してくれたらよいのにと思った。 だが、ちょいと調 べてみると、明智光秀は生まれた年も不詳で、『日本歴史大事典』には「美濃源 氏土岐氏の庶流と伝えられるが、詳かではない。「永禄六年諸役人付」に足軽衆 明智とあるので、足利義輝の代からの幕臣と思われる。1565年(永禄8)義輝 が殺害されたのち、越前の朝倉義景に仕えたらしい。68年(永禄11)足利義 昭が義景のもとを去って織田信長を頼った際に、細川藤孝とともにその仲介工 作をしたと伝えられ、以後光秀は幕臣であるとともに、信長にも仕えることと なった。同年義昭・信長の上洛に従い、信長に認められて、公家・寺社領の仕 置など京都近辺の政務を1575年(天正3)頃まで担当した。他方、武将として も、1570年(元亀元)信長の朝倉・浅井攻めに参加し、翌年近江南部の一向一 揆や延暦寺との戦いに従軍し、信長による延暦寺焼打ち後に、その旧領近江国 志賀郡を与えられて坂本に築城した。この頃より義昭とは不和となり、1573 年(天正元)に信長が義昭を攻めて追放した際には信長方に従軍した。同年7 月信長から惟任(これとう)の名字を受け、日向守に任じられた。(以下略)〈下 村信博〉」とある。

 要するに、今までの『麒麟がくる』、「天文〇〇年」までの明智光秀の動静は まったく不詳、光秀が歴史に登場するのは当時で言えば老年期の40代だそう で、作者池端俊策さんが勝手に創作しても構わないというか、裁量の範囲が広 いことになる。 「足利義輝の代からの幕臣」とすると、第十一回「将軍の涙」 で近江の朽木(くつき)に幽居している将軍足利義輝(向井理)のところに、 奉公衆の細川藤孝(眞島秀和)に案内されて、明智光秀(長谷川博己)が行く というのは、おかしいことになる。 室町幕府第十三代将軍、足利義輝のこと は、また明日。

 4月1日、先月からつぶやき始めているtwitterに「年表も出してほしいで す。」と意味不明のことを書いたのは、NHKの『麒麟がくる』のtwitterに付 けるつもりだった(不慣れで…そのまま)。 しかし、その後、ちょっと調べて みて、「天文〇〇年」までの明智光秀の動静を年表にすることは不可能だとわか ったのであった。