福沢索引2006年10月のブログ・河北展生さんの「幕末10年間の学塾経営の苦心談」[昔、書いた福沢245]2020/04/16 07:02

 しばらく休んでいた「福沢索引」[昔、書いた福沢]を続ける。

第683回三田演説会<小人閑居日記 2006.10.24.>

 「創立150年を前に」、講師は最近共著で『「福翁自伝」の研究』(慶應義塾 大学出版会)を出された河北展生(のぶお)さんと佐志傳(つたえ)さん。 河 北展生さんの講演は「幕末10年間の学塾経営の苦心談」。 攘夷か開国かとい う幕末政治の中での中津藩の動向、それが福沢の塾開設や経営とどう絡んでい るか、『福翁自伝』には書かれていない興味深い話をしてくれた。

なぜ「安政」義塾でないのか<小人閑居日記 2006.10.25.>

 嘉永6(1853)年のペリー来航の際、中津藩は藩内の意見が割れる、異常な 状態にあった。 翌年、福沢は蘭学を志し長崎に出る。 再来年創立150年を 迎える慶應義塾は、安政5(1858)年の創立なのに、なぜ「慶應」義塾なのか。  時の年号により慶應義塾を名乗る慶應4(1868)年まで、無名時代があるのは、 なぜだろうと河北さんは問う。 中津藩には蘭学の伝統があった。 中津に来 ての三代目藩主、昌鹿(まさか)(1744延享元~1780安永9)は、前野良沢に 思うままの蘭学研究の志をとげさせた殿様として『蘭学事始』にその名があり、 築地鉄砲洲の中屋敷は蘭学発祥の地だ。 安政5年、中津藩江戸藩邸留守居役 の上士岡見彦三(曹)が福沢を江戸に招いて蘭学の塾を始めさせる。 岡見は その前に、杉亨二(こうじ)や、松木弘安を雇って、藩士に蘭学を教えてもら っていた。 安政の大獄が起ころうかという時期だ。 中津の国元でも、攘夷 論が強く、それは怖い。 岡見は「目立たないように教えてくれ」と言い、世 間におおっぴらにはしない教え方を求めたのだ。

福沢の積極性、英学と外国行き<小人閑居日記 2006.10.26.>

 安政6年、福沢は開港された横浜に行き、オランダ語の通じないのを知り、 英語に切り換える。 河北さんは、この積極性を強調する。 教えてもらおう とする人が忙しすぎ、字引を買ってもらって、字引頼りの独学を始める。 咸 臨丸渡航のニュースを聞き、桂川家のつてで、木村摂津守に頼み込み、アメリ カに行く。 サンフランシスコで『華英通語』や英語の字引を買って来る。 当 時の外交文書には、原文に漢訳文と蘭訳文を必ずつけるキマリになっていた。  これをネタに勉強ができるから、幕府の外国奉行の翻訳方に勤める。 こうい う福沢の人物を見込んだ藩の上士江戸定府用人土岐太郎八が、病気だったのを、 娘を嫁にやると遺言を書き、文久元年冬、異例の階層違いの結婚をする。 文 久元年12月から、文久2年いっぱいをかけて、幕府の遣欧使節の一員として ヨーロッパへ行く。 字引や本で読んでもわからなくて、調べてきたいことが どんなことなのか、もう福沢には決まっていた。 特にロンドンに45日間滞 在したのが効果的で、これはと思う人に質問して、郵便、議会、病院その他た くさんのことを理解した。 とりわけ、ヨーロッパとの格差は学校教育に原因 があるのではないかということを発見したのが大きいと、河北さんは指摘する。  藩の用人島津祐太郎(すけたろう)宛、文久2年4月11日(1862.5.9.)付の ロンドンからの書簡に、積極的に西洋文明を取り入れての大変革、富国強兵の ためには洋学による人物の養成が必要で、江戸で頂戴した仕度金は残らず書籍 を買い、玩物一品も持ち帰らない覚悟だと、書き送っている。

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