武藤山治の先見性<等々力短信 第1130号 2020(令和2).4.25.>2020/04/25 06:56

 武藤治太著『武藤山治(さんじ)の先見性と彼をめぐる群像~恩師福澤諭吉 の偉業を継いで~』(文芸社・2017年)を、コロナウイルス騒ぎの引き籠りに 読んだ。 武藤治太さんは、山治の孫、昭和35年慶應義塾大学法学部卒、大 和紡績に入り、社長、会長まで務め、山治が政治意識の向上のために創設した、 大阪城前の國民會館の会長だ。

 武藤山治(1867-1934)は、美濃国(岐阜県)の豪農佐久間家の長男として 現在の愛知県弥富市に生れ、『西洋事情』に感激した父国三郎に連れられ、14 歳の時、慶應義塾和田塾(幼稚舎)に入る(『福澤諭吉事典』は、父から聞いた 三田演説館の話に憧れ、明治6(1873)年(7歳))。 福沢散歩党の一人とな り、明治17(1884)年慶應義塾卒業、翌年学友和田豊治、桑原虎治と渡米、 ひとりスクールボーイとしてサンノゼのパシフィック大学に入り苦学する。  帰国後、武藤家の養子となり、広告代理店創始、ジャパン・ガゼット社記者、 後藤象二郎秘書で大同団結運動に参加、イリス商会勤務を経て、26年中上川彦 次郎にスカウトされて三井銀行に入り、翌年鐘淵紡績株式会社(中上川副社長 (事実上の社長)・朝吹英二専務)に移る。 中国市場を見込んだ4万錘の鐘 紡兵庫工場を2年で完成する。 32年、同社支配人となるが、39年、安田財 閥をバックとする鈴木久五郎の鐘紡株の買占めにあい退社。 41年、武藤の復 帰運動が起り、監督という訳の判らぬ職名で復帰、専務、大正10(1921)年 社長に就任する。

 武藤山治の鐘紡の革新的経営、その先見性を見よう。 生産会社には、生産、 販売、労務の三要素があるが、一番力を入れたのが労務、人間尊重と家族主義 的経営だ。 職工の優遇、福利厚生施設の充実、たとえば学校、託児所、娯楽 施設をつくり、提案制度、社内報も日本で最初に始めた。 生産は、最新鋭の 機械を金に糸目をつけず導入、テーラーシステムを取り入れ工場管理を徹底し、 高品質の糸を紡出した。 販売では、アメリカ仕込みの宣伝を採用する。 さ らに、他の紡績会社に先駆けて、紡績プラス織布の兼営、綿布の生産に手を延 ばす。 輸入機械でなく、当時売り出しの豊田自動織機を最初に採用、意気に 感じた豊田佐吉が一か月間兵庫工場に居続け、機械を調整した。

 一方、大正12(1923)年実業同志会を作り政界に進出、翌年衆議院議員と なり、官業民営化や首相公選制を提案、治安維持法に反対する。 鐘紡社長辞 任後、政界も引退した昭和7(1932)年、請われて時事新報の経営再建に尽力、 論説も書き、9年1月から「「番町会」を暴く」の連載を始める。 政府の救済 を受けた台湾銀行保有の帝人株が、密かに政官財界の要人に安く売られた疑惑 (帝人事件)だった。 3月9日、自宅から北鎌倉駅への出勤途上、暴漢にピ ストルで撃たれ、翌日亡くなった。

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