福沢索引2006年12月のブログ・高村直助さんの「会社の誕生」[昔、書いた福沢252]2020/04/30 06:56

日本史における「会社」<小人閑居日記 2006.12.18.>

 ついで12月1日の高村直助横浜市歴史博物館館長の「会社の誕生」。 高村 さんは東大や共立女子大で教えた日本近代史の専門家だそうだ。 1996年に 『会社の誕生』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー6)を出し、それ以後考え たことを今年『明治経済史再考』(ミネルヴァ書房)の「「会社」との出会い」 にまとめたという。

 まず日本史における「会社」を考察する。 かねてから明治の工業化の急激 な発達の不思議に注目していて、『会社の誕生』ではハードの機械の輸入に加え て、会社の組織などのソフト面の大事なことを論じた。 江戸時代に「会社」 はあったか? 株式会社のようなものは見当たらない。 合資会社・合名会社 にあたるものは若干ある。 明治になってから断絶というか、大きな飛躍があ り、明治10年代に企業が勃興した。 特に明治19・1886年から22・1889年、 鉄道、紡績などが、政府の誘導でなく民間で動き始める。 明治の後期に盛ん になった。 江戸と明治のギャップを埋めたものは、江戸時代の前提があった。  まず株式会社の要素がすでにあった。 三井や鴻池などに、所有と経営の分離 の前史がある。 出資だけをする有限責任の前史「加入」という制度もあった。  大名貸しや廻船などに出資し、利子だけをもらう匿名組合のようなものもあっ た。 福沢『西洋事情初編』(慶応2・1866年)「商人会社」の影響も大きい。

「会社」という言葉<小人閑居日記 2006.12.19.>

 高村直助さんの「会社の誕生」を聴きに演説館に入ったら、福澤諭吉協会の 守田満さんがレジメを読んでいらして、「馬場さんの文献が出ていますよ」と言 う。 違います、と説明する。 馬場宏二さんの『会社という言葉』(大東文化 大学・2001年)で、『福沢手帖』にも寄稿があって紛らわしいのだが、あちら は「ひろじ」さん、高村直助さんの先輩にあたるというから元東大教授、今は 大東文化大学教授なのだろう。 大先生である。

 高村直助さんは、「会社」という言葉が使われるようになった歴史を、もっぱ ら馬場宏二さんの『会社という言葉』に沿って説明した。 福沢諭吉は『西洋 事情初編』(慶応2・1866年)の「商人会社」によって、会社制度の紹介者と して先駆者の一人であった。 会社概念の導入者として小栗上野介につづいて 二番手だという説があり、最初の人とさえなし得る。 「会社」という言葉の 創案者だという説もある。 だが、そのいずれにも疑問を投じ得る、というの だ。  「会社」は、蘭学者が翻訳に際して造り出した和製漢語だった。 「会社」 の初出は、杉田玄白の孫の玄瑞が訳したプリンセン著『地学正宗』(嘉永4・1851 年)で、原語はgenootschap (学会)、maatschappij(組合)、それを「会社」 と訳した。 つまり共同出資の営利企業の意味ではない。 「商社」(も和製漢 語)の初出は、開明派幕僚・長崎奉行岡部駿河守長常の共同出資企業提言(万 延元・1860年12月←馬場宏二さんは『福沢手帖』110号で1861年としてい る)で、原語はおそらくhandelmaatschappij。 その後、compagnie やcompany の訳語としても「商社」が使われるようになった。

渋沢栄一と「会社」の普及<小人閑居日記 2006.12.20.>

 compagnie やcompanyを最初に「商社」と訳した人は、わからないそうだ。  やがて「商社」から「会社」へと変って行く。 その画期になったのは、これ も馬場宏二さんによるが、渋沢栄一だろうという。 明治元・1868年10月、 大蔵省に出仕した渋沢は改正掛のリーダーとして新国家の制度作りに携わる。  渋沢(というより吉田二郎←前掲『福沢手帖』110号)がしかるべき調査によ って著した『立会(りゅうかい)略則』(明治4・1871年9月)では、「通商会 社」として株式会社の組織について、「為替会社」として銀行の組織と業務につ いての解説がなされる。 府県レベルの役人が実際の事務に使うために同月「大 蔵省事務章程」、「県治事務章程」(明治4・1871年11月)が作られる。 前者 には「第十八条 通商並勧農ノ事」に「附諸会社ノ事」があり、後者には「第 二十二条 諸会社ヲ許ス事」があった。 公用語として「会社」と決められた わけで、これが「会社」が広まった有力な原因になったのだろうという。

 幕末の段階では、外国と競争することもあって営利企業といえば「貿易」だ ったから「商社」がぴったりだった。 それが明治になって、貿易・商業に限 定しない広い意味に使うために「会社」になっていったのではないか、という。

 渋沢栄一と聞いて、この時、私が思ったのは、渋沢が静岡藩でやった合本組 織(株式会社)「商法会所」のことだった。 渋沢は徳川昭武についてフランス に行っている内に幕府が瓦解、徳川家は七十万石の静岡藩になってしまった。  渋沢は大蔵省に出仕する前、その静岡藩で、フランスで学んできた株式会社制 度を「合本組織」と呼んで実験し、一応の成功をおさめたのであった。 高村 直助さんはそれを当然ご存知だったろうが、言及はなかった。

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