福沢索引2006年12月のブログ・坂井達朗さんの「明治17~18年の『時事新報』を読む」[昔、書いた福沢253]2020/05/01 07:02

明治17~18年の『時事新報』を読む<小人閑居日記 2006.12.21.>

 12月2日神保町の岩波セミナールームで福澤諭吉協会の読書会があった。  坂井達朗同協会理事(帝京大学教授、慶應義塾大学名誉教授)の「明治17~18 年の『時事新報』を読む」。

 ちょうど2年前の2004(平成16)年12月25日の「等々力短信」に私は「創 立150年への宿題」を書いて、その年の夏に出た平山洋さんの『福沢諭吉の真 実』(文春新書)が投げかけた『時事新報』論説の問題についての議論を活発に することを求めた。 素人がそう思うのだから、福沢研究に携わる方々が、同 じ思いを抱かぬはずがない。 今回の坂井達朗さんもそうだが、西川俊作先生 も、当時の『時事新報』論説をすべて読む仕事をなさっていると聞いて(西川 先生の論文は暮に出る『福澤諭吉年鑑』に載るそうだ)、嬉しく思った。 坂井 さんは論説だけでなく、広告にいたるまでの全紙面を読んでみたというのだ。

 坂井さんは、自らの課題をこう理解した。 新聞としての『時事新報』の性 格を体系的に理解し、そこに現れている福沢の思想を解明すること。 その手 始めとして、『時事新報』紙面から解ることを通じて、福沢の思想を模索するこ と。

 なぜ明治18(1885)年なのか。 福沢および『時事新報』にとって、それ は一つの節目の時期であった。 福沢最後の政治的恋愛といわれる朝鮮問題に かかわった時期であり、よく問題にされる「脱亜論」は明治18年3月16日に 社説として掲載された。 明治15年3月に創刊した『時事新報』は、この頃、 急成長して安定する時期を迎えていた。 福沢自ら書簡に「目下東京之新聞紙 にて」「鋒(ほこ)を争はんする者は、先ず無き様」(書簡804)、「府下第一等 之新聞に相成候」(書簡830)と書いている。

 日本にとっても、この時期、国内外に問題が山積していた。 国際的には、 汽船による地球一周が最短距離で可能になりかけ、欧米の先進帝国主義国によ る植民地争奪活動が再燃していた。 条約改正に向けた鹿鳴館外交が展開され、 朝鮮における甲申事変に関して、漢城条約と天津条約が結ばれた。 清仏戦争、 イギリス艦隊の巨文島占領事件が起きた。 国内では、松方デフレの下、加波 山事件、秩父事件、飯田事件など自由党激化事件が連続し、長崎などの港を中 心にコレラが大流行した。

『時事新報』って、どんな新聞?<小人閑居日記 2006.12.22.>

 坂井達朗さんが読み取った『時事新報』は、どんな新聞だったか。  まず紙面構成であるが、『欄』『見出し』『記事本文』の3段階構成になって いる。 『欄』には「時事新報」という(社説)(社告)、「公報」、「官報」、「賞 勲叙任」、「雑報」(電報を含む)…これが曲者で千差万別種々雑多の内容、「正 誤」、「寄書(投書)」、「漫言」、「気象」、「(商況)物価」、「広告」、「公告」、「(暦)」、 「(奥付)」などがある。 明治17年12月15日から18年5月25日まで、「朝 鮮事変」の『欄』が設けられたりしている。 紙面の構造は5段、1行24字、 50行、全部で4面(2枚)、内3面弱が記事、1面強が広告になっている。 価 格は一日3銭、広告は案外安くて1行7銭。

 前提となる新聞が置かれていた条件を考えると、取材能力の低さ、情報入手 の便宜的手段によることが浮かび上がる。 通信社は日本には存在せず、『時事 新報』が通信社の役割を果していた(電報、日に200通)。 取材に当ってい た人数は、おそらく20人いなかったのではないか。 電話は試験段階で、有 線電信と郵便を使う以外なく、鉄道による取材もままならない。 外国情報は、 外国の新聞(アメリカ、中国の英字新聞、横浜のジャパン・メールなど)を入 手して(どうも定期購読ではなかったらしい、在外・通信員の郵送を待つ)翻 訳したりしている。 翻訳係がかなりいた。 国内、海外とも、福沢個人人脈 の情報が多い。 郷里に帰っている人が通信員や社友という形で記事を寄せ、 特別通信員を派遣してもいる。

つぎに報道の性格と内容。 報道内容は外国情報の比重が、相対的に高くな らざるをえない。 それは明治18年という特殊事情と、国内情報の情報収集 機会が散発的、偶発的であることによる。 全国紙ではあるが記事は東京に偏 重している。 官庁情報はくわしい。 福沢の人脈に引きずられているところ があって、たとえば荘田平五郎の消息などは細かいことまで報道している。

坂井達朗さんの『時事新報』読み込み<小人閑居日記 2006.12.23.>

 新聞としての『時事新報』の性格を体系的に理解するために、坂井達朗さん は、全記事を内容に即して分類し、一覧・比較対照する必要があると考えて、 試みている。 内容分類は5段階に、例えば1「日本国内問題」→2「皇室」→ 3「皇族・華族」→4「天皇・皇后」→5「詔勅・勅令」というように分ける試 案を提示している。 そして一本一本の記事について、『欄』『見出し』『(記事 本文)内容』『分類(番号)』の一覧表をつくる。 手間のかかるたいへんな作 業だ。 簡単に結論の出るような作業ではないが、編集スタッフの関心が、外 交、軍事、教育(教育制度の改革期だった)にあるというような話もあった。

 そして、問題の「論説」については、明治17年12月から18年12月までの 全「論説」(371編←馬場の仮集計、以下も)を、表題、全集所収の有無(収録 167編、非収録204編)、論旨・論調が福沢に似ているもの(後述の(1)A47 編、全集所収1編)、署名筆者(22編)、分類(番号)の一覧表にしている。 特 徴を挙げれば、(1)福沢以外のスタッフが書いたと推定される(全集未収録の) 社説 A.論旨、論調が福沢に非常に似ているものが多い。 B.福沢自身が執 筆した論説と論旨が異なるものはごく僅かである。 C.福沢にはない発想・論 旨。 (2)社外人が書いた社説…署名の中には執筆者の推定、断定しうるも のが若干あり。

(3)福沢がスタッフが執筆する社説の内容に指示を与えた例。 故石河幹明 氏遺族所蔵の反故の中から、社説に関する福沢のメモが発見された。 明治24 年3月から5月にかけての5点で、1点(4月14日のもの)を除いて全集未収 録という。

 全体に、いわゆる「福沢工房」説が妥当のように感じられるが、「よくわから ない」というのが、その中間報告の結論のようだった。

福沢索引2006年12月のブログ・坂野潤治さんの「幕末・維新史の中の議会と憲法」[昔、書いた福沢254]2020/05/02 07:01

幕末・維新史の中の「議会論」<小人閑居日記 2006.12.24.>

 宿題の最後は、12月9日交詢社での福澤諭吉協会の第100回土曜セミナー、 坂野(ばんの)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会と憲法― 交詢社私擬憲法の位置づけのために―」。 思想史と政治史のドッキングがその 年来の手法だという坂野さんの話は、司馬遼太郎でも読んでいるように、とて も面白かった。

 話は元治元(1864)年旧暦9月大坂での、西郷隆盛(や吉井友実)と勝海舟 の最初の会談から始まる。 西郷に会談を依頼した大久保利通への報告に、西 郷は勝を論破するつもりで会い、勝の人物と見識に「とんと頭を下げ」「ひどく 惚れ申し候」と書いている。 このことは、三年半後の江戸無血開城にもつな がる。 その会談で勝は、「攘夷」でも「屈服」でもない欧米列強との関係「対 等開国論」(その元祖は佐久間象山)と、公武合体派の雄藩、薩摩、越前、土佐、 肥前、宇和島の「藩主(士)会議」をセットにした時局打開の方策を語った。  雄藩の藩主が一致団結して、開国主義を前提にした強硬外交をもって、欧米列 強と対等な関係で「開国」を完成しようというのだ。

 この「藩主(士)会議」の構想は、幕臣で勝の友人の大久保忠寛(一翁)が 本家で、文久3(1863)年、越前の松平慶永に説いたのが最初だとされる。 坂 野さんの話は、「憲法論」と「政治論」は違うと指摘し、「憲法」と「議会」の 関係を問題にするところが重要だ。 この大久保忠寛に始まり、明治4(1871) 年7月の廃藩置県までの8年間、(幕末)「議会論」は日本の政治の主流といっ ていいほどの地位を占めていた、とする。 勝によって「幕末議会論」は、薩 摩藩の革命家、西郷隆盛や吉井友実、さらに二人から大久保利通に受け容れら れ、政治的実践の目標になる。 慶応3(1867)年の「大政奉還」と「王政復 古」(1868年1月)の基となった薩摩藩と土佐藩の「薩土盟約」(1867年旧暦 6月)は、きわめて明確な形で二院制議会を提唱している。 大名(藩主)会 議(上院)と、藩士会議(下院)だ。 大政奉還後の政治体制は、800万石な がら一大名となった徳川慶喜も加えた大名議会で決めるというのが、「薩土盟約」 以来のコンセンサスだった。 封建議会制による無血革命の筈が、明治元年の 戊辰戦争による武力革命になってしまったわけだ。

「交詢社私擬憲法」の画期性と孤立性<小人閑居日記 2006.12.25.>

 坂野潤治さんが、「憲法」と「議会」の関係を問題にするのは、ここからだ。  大久保忠寛、1864年勝・西郷会談、「薩土盟約」(1867年旧暦6月)と流れて くる「幕末議会論」による将軍制度の平和的廃止には、「議会論」はあっても、 「憲法論」はなかった。 議院内閣制においては、憲法(あるいは不文律)の 規定によって、行政府の権限と議会の権限が定められ、議会の多数党が行政府 を握るのである。 大政奉還後、「朝廷」が自ら行政府にならないかぎり、新政 治体制には行政府、すなわち「政府」が存在しない。 権力政治的に見れば、 この「政府」は徳川家を中心に組織されるか、あるいは薩長両藩を中心に組織 されるかのどちらかであり、政治史的に見れば、それを決めたのは鳥羽・伏見 の戦いである。 一戦やって勝った方が「政府」を握る。 しかし、中央政府 の権限もその正統性も、明治4年7月の廃藩置県までは、そう簡単には決まら なかった。 戊辰戦争に勝った薩長土の三勢力が握れた政府の権限は、旧徳川 家の800万石だけだった。 他の2千万石の年貢の「財権」も、軍隊の「兵権」 も、大小270の藩が握っていた。 王政復古後の明治政府の正統性も権限もき わめて限られたものだったことは、幕末・維新史において「議会論」はあって も「憲法論」がなかったことと符合するのだ。 「憲法」は「行政府」と「立 法府」の双方の権限を定めるために必要なのだ。 「行政府」の正統性も権限 も不完全な間は、「憲法論」そのものが不要だったのである。

 廃藩置県で各藩の「財権」と「兵権」が中央政府に吸収された時に、「憲法」 の必要性にいち早く気づいた木戸孝允は岩倉使節団で、欧米各国の「憲法」に 焦点を定めて視察してきた。 そしてドイツ憲法を模範にすることを決めた。  坂野さんは、戊辰戦争で名を馳せた、いわば武闘派の板垣退助には「民選議院 設立建白書」など書けない、それは幕末議会論と自由民権論の連続性を示す、 とする。 憲法論抜きの幕末議会論が板垣退助らの愛国社に受け継がれ、木戸 孝允のドイツ型憲法が明治14(1881)年4月の「交詢社私擬憲法」(イギリス 型議院内閣制←馬場注記)の画期性と孤立性をもたらした。 それは幕末以来 初めての、「憲法論」と「議会論」の結合だったのである。 それがいわば「議 会論」抜きの「憲法論」(井上毅)と、「憲法論」抜きの「議会論」(板垣退助) の挟み撃ちに合った時、明治14年の政変が起こった、と坂野さんはいう。

芳賀徹さんに言及の拙稿一覧<小人閑居日記 2020.5.3.>2020/05/03 07:43

 大久保忠宗さんが先日、「芳賀徹さんの話を聞いた人の話を読みたくなって」
「義塾史の私設「大アーカイブ」ともいうべき」こちら「轟亭の小人閑居日記」
を訪れたと嬉しい過褒のコメントをして下さった。 それで、今まで芳賀徹さ
んについて言及したものの一覧をつくったので、長くなるけれど、ご参考まで。

江戸城城門撤去の時期<小人閑居日記 2006.4.23.>
福澤諭吉協会の土曜セミナー<小人閑居日記 2006.10.7.>
福沢に俳句や短歌はあるか<小人閑居日記 2007. 3.14.>
桑原武夫さんの「明治維新」の定義<小人閑居日記 2007. 7.7.>
等々力短信 第985号 2008(平成20)年3月25日『永日小品』を味わう
川瀬巴水の木版画<小人閑居日記 2008. 4.10.>
鳥居泰彦さんの「『実業論』百年」<小人閑居日記 2009. 6.13.>
夢心地のお祝いスピーチ<小人閑居日記 2009. 7.9.>
遣欧使節団の皇帝・皇妃との謁見<小人閑居日記 2010. 6.22.>
等々力短信 第1055号 2014. 1.25. 「静(せい)」の歌会始
山本五十六の遺書「述志」(1)三国同盟時<小人閑居日記 2014.8.23.>
回想と郷愁の江戸・東京<小人閑居日記 2015.1.12.>
若い東京の中に古い江戸の魅力を再発見<小人閑居日記 2015.1.13.>
福沢の散歩のお供をして<小人閑居日記 2015.10.20.>
「レオン・ド・ロニと福澤諭吉」<小人閑居日記 2016.4.20.>
等々力短信 第1100号 2017.10.25. 『文明としての徳川日本』
各種歴史事典【徳川家康】「築山殿」と「信康」<小人閑居日記 2017.11.25.>
会津と「奥州仕置」「惣無事令」<小人閑居日記 2017.12.1.>
外人にもわかる明治維新〔昔、書いた福沢41〕<小人閑居日記 2019.3.22.>
負われて見たのは〔昔、書いた福沢48〕<小人閑居日記 2019.4.21.>
染井霊園と近くの本妙寺掃苔<小人閑居日記 2019.5.11.>
『西洋事情』を読む〔昔、書いた福沢57〕<小人閑居日記 2019.5.23.>
「笑顔の写真」その後〔昔、書いた福沢63〕<小人閑居日記 2019.5.29.>
バートンとバルトン〔昔、書いた福沢67〕<小人閑居日記 2019.6.22.>
等々力短信 第1121号 2019(令和元)年7月25日『桃源の水脈』を尋ねて
バルトンとバートン(2)〔昔、書いた福沢112-2〕<小人閑居日記 2019.9.13.>
「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕〔昔、書いた福沢119〕<小人閑居日記 2019.9.30.>                   
芳賀徹さんの講演「福沢諭吉と岩倉使節団」[昔、書いた福沢175]<小人閑居日記 2019.12.19.>
「俳人たちの『みやこ』--与謝蕪村」[昔、書いた福沢204]<小人閑居日記 2020.1.27.>
等々力短信 第1129号 2020(令和2)年3月20日 詩人たちの国で
「俳句のおもしろさ」を中高生に語った芳賀徹さん<小人閑居日記 2020.3.25.>

武藤山治、与謝蕪村、武藤金太、澤木四方吉2020/05/04 07:00

 4月25日の「等々力短信」第1130号に「武藤山治の先見性」を書いた。 そ こで読んだ武藤治太著『武藤山治の先見性と彼をめぐる群像~恩師福澤諭吉の 偉業を継いで~』の(結)第四章 言論人・文化人・武藤山治に、四 与謝蕪村 がある。 武藤山治は、明治・大正期にほとんど評価されなかった与謝蕪村の 絵の品格と面白さに興味を抱き、蒐集研究した(尾形乾山も同じく)、大正11 (1922)年に出した研究書『蕪村画集』は蕪村研究書の第一号とあった。 そ れで、芳賀徹さんが与謝蕪村に関して書いておられる本、『與謝蕪村の小さな 世界』(中公文庫)と『絵画の領分』(朝日新聞社)の索引や参考文献をざっ と見てみたのだが、「武藤山治」も、『蕪村画集』も見つからなかった。 ち ょっと不思議で、それを直接芳賀徹さんにお尋ねできなくなったことが、まこ とに残念だ。

 福澤諭吉協会の秋田旅行以来、懇意にしていただいている畠山茂さんから、 武藤山治にまつわるメールを頂いた。 登場するのは、武藤山治の長男・金太 (きんた)さんとそのご子息、取り上げた本の著者、治太(はるた)さんであ る。 畠山茂さんは、『福澤手帖』179号(2018年12月)に「澤木四方吉」 をお書きになったが、その中の「愚鈍を許さぬ美術史教室」に、澤木教授の学 生だった金太さんが回想している峻厳な美術史教室の風景を引用していた。  澤木の十三回忌に『三田文学』昭和17(1942)年11月号に寄せられた文章だ という。 澤木教授の学風は厳格を極め、教壇から発せられる言葉は、白刃の ごとく室内の空気を切り裂いた、と振り返っている。 金太さんは、理財をお えてのち美学美術史に再入学した(大正5年すぎ)のだそうだ。(この件につ いては、明日、別の資料で触れたい)

 畠山茂さんのメールには、3~4年前、武藤治太さんから慶應義塾に、古代ギ リシャの男性頭部の大理石作品が寄贈された、とある。 父の金太さんが欧州 留学の際、ロンドンで買い求め、澤木先生を偲んで大事に持ち帰ったもので、 長く武藤家にあったが、先を考えると、父の思いとともに澤木先生のいた塾に あるのがふさわしい、「武藤金太が澤木四方吉先生をおもい真正の古代作品を 入手した。それを寄贈したのだと明記してほしい」との申し出があって、受贈 したのだそうだ。 現在は、南校舎3階の萬來舎の入口に展示されている。

國民會館設立趣意書と、武藤記念講座2020/05/05 07:04

 『武藤山治の先見性と彼をめぐる群像~恩師福澤諭吉の偉業を継いで~』(文 芸社)の著者、山治の孫、武藤治太さんが会長を務める國民會館のホームペー ジに、武藤山治の「國民會館設立趣意書」があった。 昭和7(1932)年は88 年前、軍部の台頭が顕著となって上海事変が起り、満洲国が成立、井上準之助、 団琢磨が暗殺された年である。

 「我が国の立憲政治は、時代の推移と共に形式的進歩の著しきものあるに反 し、国民の智的進歩に至りては遲々として之に伴はず、政界の腐敗、政党不信 の声を聞く所以(ゆえん)なり。而して是れ実に政治家竝(ならび)に一般国 民の政治的無自覚と政治道徳の欠如とに依る所にして之を救ふは政府又は政治 家の任と云ふよりも寧(むし)ろ国民の自発的に行ふ可き急務なりと信ぜらる。 然るに世上、その必要を叫ぶ声のみ徒(いたず)らに高くして,然(しか)も其 の実行に至りては未だ曙光すら発見する能(あた)はざるは何ぞや。事の難き にあらざるなり、人の之を行はざるなり。/即ち政治教育の殿堂として國民會 館を設立するの趣意は、畢竟国民をして自ら政治教育運動に携はしむるの端緒 を作り以て我が国立憲政治百年の大計を樹立せんが為め敢て実行の第一歩を成 さんとするに外ならざる所以を茲(ここ)に明(あきらか)にするものなり。  昭和七年拾月壱日                  武藤山治」

 國民會館のホームページにある、武藤記念講座の講演記録が、充実している。  特に「武藤山治論」、武藤治太さんが武藤山治について語ったものが、それぞ れ興味深い。 「武藤山治と・・・」と、帝人事件、リンカーン、ナポレオン、 時事新報、國民會館の各論、さらに「鐘紡の興亡」、「武藤山治をめぐる群像」、 「國民會館の使命」、「同時代の数奇者達」などがある。

 昨日書いた、畠山茂さんのメールにあった息子の武藤金太さんの「理財をお えてのち美学美術史に再入学」(昨日初め「治太さん」と書いて、後刻、畠山 さんからご連絡頂き、訂正した)についても、こんな記録があった。 武藤治 太さんの「武藤山治と時事新報」という講演後の、質疑応答、質問4の答に、 武藤山治は子供に対しては自由放任で、金太さんが経済学部から文学部に相談 なく変わった時も、「そうか、しっかりやれ」と、なんら反対せず息子の判断 に任せた、と父から聞いている、と。