高松宮と皇族専用車「スイロネフ381」 ― 2020/05/11 07:10
原武史さんの『歴史のダイヤグラム』2月15日と22日に、昭和天皇の弟の 高松宮と皇族専用車「スイロネフ381」が登場する。 コンパートメントと寝 台が付いている、この車両が併結された普通列車に乗って、1945(昭和20) 年2月13日、海軍の軍人だった高松宮は上野を立ち、海軍の重要な施設であ る青森県大湊警備府の視察に行き、22日まで大湊に滞在している。 帰路は往 路と同じ経路を取り、大湊、野辺地を経て、尻内(現・八戸)に着いた。 尻 内付近の雪原の街道で、先生と連れられていた生徒たちがみな、一様に列車に 向って敬礼している光景を、高松宮は目のあたりにして、感激を新たにした。 そして日記に書く、「コノ国民ヲ、『スペイン』『アルフォンソ』国王ノ自動車ニ 等シク立止ツテ礼ヲシタ『スペイン』国民ガ間モナク革命ノ君臣タラシメタト 同ジニ考ヘラレヌ、同ジニシテハナラヌ」(『高松宮日記』第8巻) 高松宮は 感激して、たとえ敗戦は不可避だとしても、日本は革命が起こってアルフォン ソ13世が亡命したスペインのようにはならないと確信しているのだ。
原武史さんは、実は高松宮が約1カ月前の1月26日に、京都で近衛文麿に 会い、夕食をともにした事実を書く。 近衛は2月14日、敗戦に伴い共産革 命が起きる可能性に触れた上奏文を昭和天皇に提出したが、この考えを高松宮 に伝えていたのではないか、と原武史さんは推察する。 その際に悪しき前例 として、アルフォンソ13世の名前が出たのかもしれない。
高松宮の脳裏には、このときの近衛の言葉がずっと残っていたに違いない。 敗戦に伴う革命の勃発は、高松宮にとっても脅威であった。 しかし冬の東北 での光景は、それが杞憂にすぎないことを確信させた。 結果として、高松宮 の確信は間違っていなかったことになる、と原武史さんは言う。
敗戦後の1946(昭和21)年4月15日、高松宮は引揚者や戦災者を支援する 「同胞援護会」の総裁として九州各地の関係施設の視察に出かけた。 1945 年11月のダイヤ改正でようやく主要幹線に復活していた急行の、博多ゆきで 品川を立った。 皇族専用車「スイロネフ381」はGHQに接収されていたが、 「米側カラ皇族ニナラ貸ス」とのことで、急行に併結されたこの車両に乗った。 (『高松宮日記』第8巻)
博多で降りて車に乗り換えると、米軍のシープが先導した。 止めさせよう としたら、知事が話し合ってのことで我慢してくれと言われ、高松宮は、「米 MPニ『エスコート』サレテルノデハ気ガオサマラヌ」と言い返している(同)。
帰途、京都から高松宮の御用掛を務めた細川護貞が乗ってきて、品川に着く まで密談した。 高松宮は九州で鬱積した米軍に対する不満を細川にぶちまけ、 その不満は当時公表されたばかりの憲法改正草案にまで及んだ。 『細川日記』 (下)に、「憲法に就いては、『あれは幣原[喜重郎・首相]は得意なんだが、 僕は君主制の否定だと思ふ。(中略)大体、松本国務相の案を蹶(くつがえ)さ れたので、あれは第二案と云つてゐるが、全然米国製のものだ』と、すこぶる 御不満の様子に拝し奉る」とある。
「松本国務相の案」は、国務大臣松本烝治が主体となった大日本帝国憲法の 改正試案。 これをGHQが一蹴し、代りに作成したマッカーサー草案をもと に新憲法の条文化が進められた。 高松宮は昭和天皇と対照的に、主権在民を 規定した憲法改正草案を「君主制の否定」という強い言葉で批判したのだ、と 原武史さんは書いている。
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