「湯治舟」がわからなかった ― 2020/05/13 07:11
本井英先生の「本井英の俳句日記」、4月21日は<湯治舟に声かけていゐる 郵便夫>だった。(http://furansudo.com/archives/16024) この「湯治舟」が わからなかった。 江戸時代、湯船というのがあったことは、どこかで聞いた ことがあった。 屋形船のようなものに風呂を設けて、川筋に舫ったり、港の 船に漕ぎ寄せて、料金を取って入浴させるものだ。
虚子編『新歳時記』増訂版(1934(昭和9)年初版、2004(平成16)年増 訂70刷)を見たら、春四月に「湯治舟」(たうぢぶね)があった。 「別府温 泉では一家族或は數家族が、湯治期間中の食料品や世帶道具等を積み込んだ自 分の持舟を波止場に繋いで、旅館に入らず、その舟から金盥・手拭等を提げて 共同溫泉に浸つて湯治をする習ひがある。この舟を湯治舟といふ。春の別府港 内には百隻近くもの湯治舟が舳を竝べて繋つてゐることがある。」とあった。
ほかに、「湯治舟」でネットを検索していたら、石菖女さんという方のブログ に「別府での出会い(その2)「湯治船」」があり、「湯治舟」を季題として取り 上げたのは高浜虚子だったと、こんなことが書いてあった。 日本一を誇る別 府温泉は、8世紀「豊後風土記」や「伊豫国風土記」に記される長い歴史を持 っているが、明治4(1871)年に別府港が築港され瀬戸内海の交通が活発にな ると、中国、四国、関西方面からの入湯客が訪れるようになって、温泉街とし て発展した。 その頃、不老泉、東西浜脇温泉、紙屋温泉、竹瓦温泉などの共 同温泉が新改築され、その周辺に温泉ができた。 その頃の温泉とは温泉治療 (湯治)を目的としたもので、入湯客は部屋だけを貸す宿(木賃)などに長逗 留し、名高い共同温泉に通うというスタイルであった。 「当時のスタイルと して、港に泊めた船で寝泊まりしながら温泉に通う「湯治船」もあったという。 湯治船について、「春の四月、五月の頃になると、山口県の大島郡とか又愛媛県 の八幡浜付近の海岸の村では、一艘の船に米、味噌、醤油を積み込んで、二・ 三十人の人が一団となってこの別府に来る。帆をかけて入って来た船は、波止 場に繋いで三週間ばかり滞在する。(後略)」などと記された資料を見たことが ある。そして有名な俳人である高浜虚子が当時の別府温泉の風物詩「湯治船」 を春の季語として取り上げ、昭和九年の虚子編「新歳時記」に採録されたとい うことであった。」
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