杉亨二、大隈重信、明治14年の政変2020/06/15 06:54

福沢は安政5年、中津藩江戸藩邸の上士岡見彦三(曹)に招かれ江戸へ出て、 蘭学の塾を始める。 岡見はその前に、杉亨二や、薩摩の松木弘安を雇って、 藩士に蘭学を教えてもらっていたから、杉亨二は福沢の前々任者だったことに なる。 昨年5月福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で染井霊園に行った時、杉亨 二のお墓をお参りして、こう書いていた。

杉亨二(こうじ)(1828-1917)…日本における統計学の先駆者。 福沢の前 に、1849年中津藩江戸藩邸の蘭学塾で教授。 1853年、勝海舟の塾で塾長。  蕃書調所教官、開成所教授職となり西洋統計学を独学。 維新後は静岡藩藩士、 沼津兵学校教官、『駿河国沼津政表』作成。 1870年、明治政府に出仕し統計 業務に従事、『明治十二年甲斐国現在人別帳』は日本初の本格人口調査。 明六 社社員。 小室さんによると、統計学の西川俊作先生がこの墓を大切にしてい たそうなので、同じ流れの小尾恵一郎ゼミの私も有難く拝まねばならないのだ った。

杉亨二(こうじ)、呉文聰(くれあやとし)、大隈重信は、13日に書いた座談 会「150年のスパンで「統計学」を見る」にも、登場する。 福沢が大隈重信 の求めに応じて、門下生を「スタチスチクの仲間」ということで紹介し、政府 に入った門下生が明治14年の政変のあおりを食って、官を辞すことになった ことは知っていた。

馬場国博教諭…大隈重信も「統計伯」と呼ばれるぐらい非常に統計と深い関 わりがあった。 1879(明治12)年に福澤は大隈に宛てた書簡で、慶應義塾 の塾員を13名、「スタチスチクの仲間」ということで紹介し、それから杉亨二 や呉文聰など3名を「統計局の人」として推薦する。

大久保健晴教授…杉亨二は当時、すでに太政官正院の政表課で独立した政府 統計の実現を目指して尽力していたが、一方、大隈大蔵卿の大蔵省にも「統計 寮」が設けられ、明治政府内で統計行政が分岐していく。 この対抗関係に一 つの終止符を打ったのが、1881(明治14)年5月の参議大隈重信による太政 官統計院の設置で、杉らの政表課は統計院に包摂・解消された。 このとき、 大隈の右腕となったのが、福澤の推薦によって送り込まれた、矢野文雄、尾崎 行雄、犬養毅、牛場卓蔵ら慶應義塾グループだ。 その背景には政府統計を充 実させるという目的以上に、国会の早期開設に向けた大隈と福澤の政治的な連 携と共闘があったと考えられる。 これが明治14年の政変へと発展した。 実際に大隈を取り巻く慶應派の矢野や、尾崎、犬養らは、自分たちが統計院 に出仕した真の目的は、国会の早期開設に備えたものであったと回顧している る。 国会が開かれれば、国務の説明をする政府委員が多数必要になるから、 今から民間の人材を抜擢して政府に入れ、政務の練習をさせることが大隈の意 図であったというのだ。 当然、杉ら政表課グループはこうした動きに失望し た。(馬場国博教諭…統計院が1885(明治18)年に「内閣統計局」という形に 衣替えしたときに、杉などの重要人物が辞めている。) その中で、福澤がどう いう位置にいて、いかなる役割を果たしたのかは、なかなか難しい。 慶應義 塾の出身者を推薦しているので何らかのかかわりはあったと思うが、福澤の姿 は陰に隠れ、表には見えてこない。 明治14年政変を考える上でも難題の一 つだ。

馬場国博教諭…大隈は後年、1898(明治31)年には「政治を行う上では統 計というものが非常に重要だ。国政を進ませる上では政府がきちんと統計をと って、それをもとに政治を行うべきだ」という、近年よく言われているEBPM (Evidence-based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)に通じる発 想を政治家として持っていた。

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