松永久秀、天下人三好長慶のNo.22020/06/27 07:02

 つづいて「松永久秀」。 大河ドラマ『麒麟がくる』では、吉田鋼太郎が演じて、初めから重要な役回りになっている。 足利義輝(向井理)の将軍家を凌ぐ、実力者三好長慶(ながよし)の家臣として、鉄砲を探しに来た明智光秀(長谷川博己)の便宜を図り、商都堺にも顔が広い。

 6月4日放送の『歴史秘話ヒストリア』は、松永久秀を「天下人三好長慶のNo.2」として、豊臣秀吉の竹中半兵衛や黒田官兵衛になぞらえた智略の人だと扱った。 三好長慶は、織田信長以前の天下人として、注目される。 長篠の戦(天正3(1575)年、織田・徳川連合軍が、大量の鉄砲を使用して武田勝頼を破った)の25年前から鉄砲を使い、キリスト教の布教を許したことも、信長に先駆けているという。

 松永久秀、波乱万丈の生涯である。 出身地については、阿波、山城、摂津など諸説があるらしい。 畿内を支配した三好長慶の家臣で、はじめ摂津滝山城(神戸市中央区)の城主として、摂津西半国から播磨東端で活動する。 永禄2(1559)年には大和信貴山城(奈良県生駒郡平群(へぐり)町)に入り、大和国を領国とした。 永禄3(1560)年には多聞山城(奈良市多門町)を築城した。

 永禄7(1564)年三好長慶が死ぬと、三好三人衆(三好長逸(ながゆき)・三好政康・岩成友通)と協力して実権を握り、翌年三好政権と対立する足利義輝を暗殺(『歴史秘話ヒストリア』では三好義継が実行、松永久秀の関与はないとした)。 やがて三好三人衆と不和となり、袂を分かってからは抗争を続け、長慶の甥、三好義継を担いだ。 この間、永禄10(1567)年には筒井順慶、三人衆方との戦闘によって奈良東大寺の大仏殿を焼失させた。

 永禄11(1568)年の織田信長の足利義昭を擁しての上洛にあたっては、いち早く信長方に帰参し、大和支配を認められる。 元亀2(1571)年、武田信玄に通じていったん信長に背いたが、天正元(1573)年降伏して赦免され、多聞山城から信貴山城に移った。 天正5(1577)年、再び信長に反旗を翻して兵をあげ、信貴山城に籠城するものの敗北、10月10日、大名物の茶釜「平蜘蛛」とともに焼死した。