近年の研究による織田信長のイメージ2020/06/28 07:28

「織田信長」のイメージが近年の研究によって変わってきたというのを、6月17日放送の『歴史秘話ヒストリア』「ノブナガ万華鏡 英雄とその時代」は、やっていた。 大河ドラマ『麒麟がくる』の織田信長は、そうした新しいイメージで描かれているように見える。

 私は4月3日のこの日記に、呉座勇一さんの朝日新聞連載コラム「歴史家雑記」から、最新の研究による織田信長像<小人閑居日記 2020.4.3.>というのを書いていた。 「一般の人が知っている戦国武将の著名なエピソードのほとんどは、江戸時代以降の文献に登場するもので、要は創作である。 人となりに関して同時代人の証言が比較的多いのが織田信長だ。 だが小説やドラマで好んで用いられるキリスト教宣教師ルイス・フロイスの信長評には誇張や脚色の疑いがあり、注意する必要がある。」「最新の研究に従えば、信長は朝廷・幕府・大寺社などの伝統的権威を尊重し、世間の評判を非常に気にする人物だった。 本能寺の変に関する黒幕説の背景には「天才的革命家の信長が明智光秀ごときに倒されるはずがない」という“信長神話”があり、一見斬新に見えるが、実は通俗的な古い信長像に依存しているのだ、そうだ。」と。

 「ノブナガ万華鏡 英雄とその時代」の、エピソード(1)は「信長 英雄への道」で、まさにその点を扱っていた。 織田信長の強烈なイメージは、側近の家臣太田牛一が江戸時代になってから書いた『信長公記』と、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの『日本史』の二つに、大きな影響を受けている。 『信長公記』では、長篠合戦での戦さの巧みさ、桶狭間で戦死した家臣の話をして涙を流す情け深さ、本能寺の変では側にいた侍女に取材して、謀反の相手が明智光秀と知り「是非に及ばず」と運命を受け入れるしかないと、劇的な最期を遂げた。 フロイスの『日本史』2「信長編II」は、よき理性、明晰な判断力、迷信的慣習の軽蔑者、仏教勢力に対抗し、安土城下に神学校までつくった。 小和田哲男静岡大学教授は、この二つが信長像の元だとする。 (江戸期)乱暴者、家臣を叱責、鳴かぬなら殺してしまえ。 (明治)天皇を支えた一面を評価。 (高度経済成長期)改革者としての革新性が時代にマッチ。 と、時代時代の思いがある。

 エピソード(2)は「ありのままの信長像」。 最新研究は、手紙や書状などで実像に迫る。 金子拓(ひらく)東大史料編纂所准教授によれば、足利義昭との関係も、従来は「利用した」と言われていたが、書状には「お供する覚悟」と将軍に尽くそうとしている。 「天下布武」についても、従来の「武力で天下を取る」ことではなく、熱田神宮宝物館蔵の「天下布武」の印をついた書状のきわめて早い例(同館内田雅之学芸員)に関し、金子拓准教授は「天下」は「五畿内」を意味し(「五畿内の領主が天下」と呼ばれる(フロイス))、「天下布武」は「天下静謐」将軍義昭が五畿内を穏やかに治めていることを意味するとした。 京都を中核とする空間が「天下」、「天下布武」は将軍が安んじて京都にいる状態を実現しようとするスローガン。 「天下」が将軍によって治まっている状態を目指したが、諸大名は争っていて、そうではないので、武力によって実現しようとした。 信長は、将軍のサポート役、真面目なもの。

 比叡山の焼き討ちでは三千人を殺して、従来、きわめて残忍なものとされる。 元亀元(1570)年9月、浅井朝倉勢が延暦寺に逃げ込む。 信長は交渉から始め、協力するなら寺の領地を回復する、できれば中立を保ってもらいたい、と伝える。 返事がないが、一年近く待って、翌年9月比叡山の焼き討ちを実行する。

 金子拓准教授は、こうした自分の信長像について、研究はまだ始まったばかりであり、今後もいろいろな見方が出てくるだろう、と語った。

 『麒麟がくる』で織田信長を演じている染谷将太は、信長は「孤独と闇を抱えているのに加え、とてもピュアな人間であり、弱い人間であることを繕わない」と、語っていた。

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